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土に触れること 20歳の哲学#1

土に触れること、それは「生活」することである。よく思うのは生活の文字には「活」という字がある。簡単に言えばよく生きることである。生きるのではなくて。そこには一般的に生業に務めるという謂いがある。仕事、学校。ただ中には(僕もここに入る)仕事や学校に行けない人もいる。経済的な理由、精神的な理由などある。そんなアンチ生活人に対して思うことは「土に触れること」が大事なのだと。

土・・・芸術、執筆、イメージ、実験、興味、自然、心、意識、無意識、即物的、脱意味的、意味的、脱目的、目的…

よくわからないと思う。実際、僕自身もよくわからない。わからないと不安になるだろう。その不安もそのまま、土である。ということをなんとなく伝えていきたい。

20年しか生きていない僕なりに生きてきてなんとなく感じた高揚感とか不安感、虚しさからわかったこと。その体系の核となるものが土である。

僕は躁鬱と診断された身であるので、少し精神に「問題」があるらしい。躁鬱という「病気」を知ってなんとなく安心した。今まで自分は周りと違うということを避けても避けても冷酷に押し付けられてきた。勘違いだと思って普通を装ってみたりもした。しかしいざ「あなたは躁鬱といって精神的な問題を抱えていますよ」と言われると、なんだ仕方ないじゃん、と半ば開き直って安心した。今まで招待のわからない不安だとか虚無感が少し、明るみに出た感じがした。それから僕は躁鬱研究をすることにした。躁鬱研究はそのまま、生活研究になる。といっても仮説を立てて行動したりするわけでもノートに書いたりするわけでもなくただ生活していただけ。なのだが躁鬱と診断されてからは確固とした意志を持って生きているような感じもする。今までは不定期な気の流れだ、まぐれだと思っていたため研究しようにもマウスがいない状態だったのである。しかし診断された途端マウスがそこら中にあふれ、それは僕が死ぬまでずっといるということを知ったのが大きい。前提はここら辺で終わり。ここからは土について、途中ではあるが研究結果を述べていく。

土…不安

なんとなく、よく分からない不安を感じる。躁鬱の僕にとってみればそれは「鬱」の期間かもしれない。しかし恐らく発症以前にも、また躁の時期であっても不安はやってくる。やってくるというか、気づいたらそこにいる。不安にどう向き合うかはそれぞれ個人のスタンスがあると思う。よく言われるのは筋トレ。筋トレをすれば不安がなくなり楽観的に物事を見れる、といったもの。あとは仕事をするなり学校へ向かうなり。人の数だけスタンスがある。しかし僕はそもそも、不安を「対処」するというのが気にかかる。土とは、抑制しないことである。土とは心地いいものであるから、抑制をするのはそれに反している。抑制というのは制限をかけたり心とは別方向に体を向かわせる行為である。それは心地が良くないだろうといった話。不安をそのまま、隣に置いておく。それじゃあ不安のままではないか、と思うかもしれない。全くその通りだ。不安がないのを望むかといったら、僕だったら望まないが、もちろんと答える人も少なくない。しかし思うにこの質問をされたら少し戸惑うのではないだろうか。もちろん!と口が先に動くけど、なにか心に違和感が発生する。土というのはそこにある。本人が知覚していない、本人の特異な違和感が土である。不安があると何が起こるか。僕は誰にも検証も実験もしていないから、僕の事例しか出せない。だから今回の記事は(といってもこれまでも、これからもずっと)僕のことしか書かない。それが書きやすいし心地がいいから、それしかできない。これも土である。この文章に慣れていくと自ずと「土」というのがイメージできると思う。ヒントは理解しようとしないことだ。フィーリング。不安が起こると何が起こるか。僕は絵を描き、執筆をして、散歩も、独り言も、読書も、その他なんでもできるようになる。不安を感知して、それから動く。対処しようという意気ではあるが、それを対処しようとは微塵も思っていない、矛盾した状態である。矛盾も土。行為を終わらせないこと。中途半端な状態。そうやって行動していると、何となく心地がいい状態と、なんとなく不安な状態が綱引きをしている絵面になる。これがいい。縄を引きあっている最中の、縄が緊張した状態。どちらかが勝ってしまうと縄は床に落ちる。これは不安を対処しきった状態であり、不安を対処できなかった状態でもある。不安を対処している状態が望ましい。映画を見た後の「余韻」がある。しかし生活において余韻というのは死を意味する。余韻を残さない。行為を終えたら間髪入れずに次の行為をする。そのためには自分の作品を自分で判断しないで置いておくのがいい。例えば絵を描いたとして、「うまいな」とか「下手だな俺(これが大半。それが苦しい。)」は一切要らない。うまいな、下手だな、といった判断をする判断基準は再現性にある。再現性。これは千葉雅也さんのセンスの哲学でも紹介されている。土というのはセンスでもあるので、僕はこの本を読んで自分が思っていたことをよくぞ言語化してくれたと思った。僕は言語化というのがあまりうまくないので、読書する行為には相当助かっている。で、再現性といったが、モデルがあると再現性が生じる。絵を描くときに憧れとしてアーティストがモデルになっていると、そこにいかに近づけるかの再現をする行為が絵を描くことになってしまうので、どうやったって下手だなと思ってしまう。それは心地が良くない。また出た。心地が良くないのは土ではない。どうすればいいか。モデルを置かないか、複数置くかして再現しようとは思わないことである。真似、嫉妬、憧れ。ではなくて個性、センス、即物。しかしそれでは気が重い人もいる。モデルがあるとして、そこに近くない自分の絵をどう見るか。「人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にとってできるものとして信じる」。この言葉が助けになるかもしれない。モデルの有無、個人の技術を置いておいて、最後は「自分の作品」として帰結するのがよろしい。それも土。僕が書く文章、僕が描く絵、喋り方、だれも真似できないだろう。不安というのは多くは比較によって生まれる。どれもこれも自分の作品なのだから、本当は心配する必要がないのである。そしてその作品は不安との綱引きで生まれるのであるから、不安さんも愛すること。どう思われてるかな、へたっぴだな、カッコつけてるな、全部ひとまとめにして、自分だけの作品である。明日から飄々と別人変人になってみても大丈夫。

土…面白おかしく、心地のいいこと

僕は普段の会話で「演技だろそれ」と疑われることがよくある。多分、感情が表に出にくいのだろう。でも自分でも思い返してみると、自分はすべて演技ではないのかと思う。テレビには今まであまり興味を示さなかったが、「パシフィックヒム」という番組だけは好きだった。バナナマン日村が設楽とバカリズムの指示をイヤホン越しに受け、それを何も知らない女優さんの前で実行していく番組。女優さんにはウソのロケ番組情報を伝えてあり、もちろん日村は指示を聞くだけなのでそのロケの本筋とは全く逆方向、いやレールにも乗っていないカオスな状況である。女優さんからしたら、恐怖かもしれない。明らかに言動がおかしい。でも面白いからOK、みんな笑ってるからOK。視聴者も面白い。行き過ぎた行動もする、というかほぼほぼ”悪ノリ”である。ドキドキ、ハラハラ、面白い。僕は大いに笑うけど、見ていて何か別の感情がそこに沸いていた。「いいな」と素直に思ったのである。僕も幼いころはパシフィックホマと言わんばかりに支離滅裂な言動を頻繫に起こしていた。だが年を重ねるにつれて分別をわきまえ、窺い、とてもやりづらいと感じつつも、しかし仕方がないといった状況。悪ノリ。面白くないなら、つまんないだけ。しかし面白いなら、多少悪くてもなんか許せちゃうのが、面白いという魔法。僕は脳内がいつも忙しく、しかも必ず関係のない事ばかり浮かんできてしまう。仕事に行ったら仕事のことを考えられず、仕事以外のことが浮かぶ。背景には音楽が流れ、目に入った情報からマジカルバナナが始まり、今いきなり叫んだらどんな反応するんだろうとシミュレーションが始まったり…お祭り騒ぎである。なので頑張って脳内パワフルをかいくぐって返答をしたりするのだが、少し厳しい。集中してんの、と言われる。してるわけがない。興味がないのだから仕方がない。もし脳内パワフルじゃない人間だとしても、こんなのに集中してたまるかとさえ思っている。開き直ってるし頑固かもしれない。それは置いておく。パシフィックヒムは他人からの指図だが、僕の場合、脳内からの指示で行動できるかもしれない。パシフィックホマ。僕はパワフルをかいくぐって、場合には思考を偽って行動しているので(みんなもそうでしょう?)もう最初からパシフィックホマ状態なのだが、そこから離れてみて心とか脳からの感覚イメージに素直に文句を言わず行動してみたらどうだろうか。人生という番組、と割り切ってみて一度行動してみたら面白いかもしれない。僕は絵を描くときだけは番組状態になっている。自由に囚われずに、心の指示だけを聞いて何も考えないでいると、知らぬ間に出来上がっている。この記事の画像は最近書いてるパステルの一枚である。絵を描いてて思うのは、一種のスリルと興奮と、心地のよさである。心だけに従っているからどんな絵になるか分からない。見当がつかない。そのスリル。自分で考えていないわけだから、物凄く早く出来上がる。心配をする必要がないから。そうすると、やはり心地がいいのである。パシフィックヒムは土に触れるイメージの一つである。ちなみに僕が友人から「演技だろ」と言われるのは単に感情の起伏が少ないのだろうと思っている笑

土…実験、自分はないものと気づくこと。

また躁鬱の話を少しする。躁鬱と診断された人にはわかる話。記憶の仕方が通常とは異なることだ。鬱、躁、通常期で記憶がバラバラ、躁状態では何も怖くない、鬱なんてもう来ないしきても大丈夫なんて僕は思ってしまう。当然そんなことはなくいざ鬱が来ると途端に鬱だったころの記憶が出現し、今度はうつの記憶だけが存在する世界になる。そうなったら大変で、生涯ニヒリスト状態になる。俺は生まれてからずっと虚無感を抱えているんだ、こんな世界生きたって仕方がないよ、俺なんか、俺なんか、俺なんか…。完全におかしいのに、そのことに気づかない。本人にとっては存在してないものなので、概念が無いというか、真剣に悩んでるわけです。しかし普通はもう少しグラデーションを持った記憶をされると思います。過去から未来への一線。あの頃はこんなことがあったとか、そしたらあんなことされて落ち込んだけど、寝たらどうでもよくなったとか。これから○○したいなとか、、。すみません、普通の記憶の仕方がわからないので(そもそも存在するのか?)例えが下手になりますが。で、躁鬱の記憶はそのまま、人格にある特徴を発生させると思います。それは「自分がわからない、自分が無い」といったものです。僕は最初、自分がわからなくてすごく不安で、今まで一度も相談したことがなかったのに初めて母に相談したのは16歳の頃でした。16歳は、僕にとってようやく自我が芽生えたころです。それまでの記憶は本当に少ないです。何も考えてなかったのかなと思っています。きっかけは初めて悪口というのを言われたからです。バイトをしていた時です。やはりこのころから働けないのは始まっていて、夜の四時間も働けないので、朝1時間半だけ仕込みで働くことになりました。(ちなみにオープニング営業だったので他の従業員とスタート時期は同時なはずなのに僕だけ仕事を覚えていなかった、、のはまた別の機会に。これも少し長い話になるかと。)朝は僕含め4人くらいしかいなかったのですごく気が楽でした。やることも簡単。掃除機をかけてと言われたら掃除機をかける。窓を拭いてと言われたら窓を拭く。三日後には自分で動いていました。我ながら、いい感じに働いているのでは?と思っていました。が、ある日店長に呼び出されました。なんだなんだと向かうと「○○さんと○○さんがね、ほまれくんのこと何考えてるかわかんないって」と言い出した。僕は「?」でした。そのことだけが引っかかって、後の話は全てフィルターがかかってよく聞こえません、覚えてもいません。でも店長が異動になるので僕のことが心配、、みたいな話だったかな大筋は多分。僕はその日かえって、一人思い悩みました。でも何を悩んでいるのかは分からないまま。何日たってもあの言葉がぶり返すので母に相談することにしました。一回に降りて母の前に座り、「あのねー」といったところでプツンと。涙がでました。それまで何をどんな風に悩んでいるのか分からなかったのに、その時にスッと答えが出てきて。思えば、その時がようやく僕の自我が芽生えた瞬間だと思います。涙ながら説明をしていた。「他人によく分からないって言われてもさぁ……僕だって自分のことよくわかんないよ」口が先に動いたので、自分の発した言葉をよく聞きながら、心では自分に相槌を打っていました。なるほどね。僕は自分がわかんないんだ。後で躁鬱の特徴を知って合点が行きました。僕なりに考えると、躁鬱である人の悩み方としてはステップっぽいのがあると思います。「自分がわからない→全て自分→自分というものはない」です。数ある悩みの中の一つですが。全て自分と自分というものはないというのはほぼ、ニアリーイコールだと思います。詳細は、自分がわからないから、二つに分岐していくのだと思います。ぼくは、どっちにも行きます。時期によって違います。今は自分というものはないです。時期によって感覚とか記憶、思考も全て違いますから躁鬱の人は書くことに一生困らないと思います笑。さて、自分というものはないと気づくと何が起こるか。それぞれスタンスがあるのでコレと言ったものは出せません、やはりここでも僕の話をしましょう。ぼくは僕の話が大好きです。
まず、自分探しというのが無くなります。自分探し、やってても退屈なのに何故かやってしまう。それがなくなる。というか、もっと能動的な幅広い自分探しにもなると思います。今書いてる記事も、一つの自分探しのようなものです。典型的な(僕の)自分探しというのは、ネットで「○○特徴」だったりmbtiだったり、自分には何ができるんだろう、得意なことは何だろうと延々と繰り返すことを指します。でも一向に終わりません。謎が深まるわけでも真理に近づくわけでもなく、よくわからないまま終わります。多分、暇なんだと思います。そうではなくて、自分から動くこと。しかしそういった典型的な自分探しを経験しないと、ステップは踏めないのかなとも思ったり。能動的で幅広い悩みです。もうそれはただの悩みではなくて、心地の良い、土の悩みです。畑に虫がいるくらいの。害虫なんて呼ばれるけど、僕だったらようこそ!今日も天気いいね!どんどん食べてって!おいしいでしょ~なんて話しかけてしまいます。能動的で幅広い悩みとは、簡単に言えば行動することです。そして答えなどないということも気づきます。だからむやみやたらにスマホで調べたりすることはなくなって、自分で動くことになります。そしたら暇なんかじゃなくなりますから悩みは無くなる。文章、絵をかいて出来上がった作品を見て自分とは何なのか考えるわけではなく、ただかいてるその瞬間、刹那が自分であり、それは刹那的だからすぐになくなり次の状態へ。そこに前後感覚はなくただ並行して存在している。だからそこには自分というものがない。イメージは水です。どんな形にも適応する、川の流れ。雨。海。海の下には生物が、上には曇が、川が流れるところには飲み水がある。自由で、体系的な作品です。そこに終わりはない。始まりもない。それはそのまま、あなたです。自分がないのだと気づくと、水になる。躁鬱は記憶域がカオスなので一周回って今しか見えません。一周回るのにすこし苦労しました。飽きたので次へ。気になったらさっとやってみて、面白かったら続けてみる。飽きたらさっとやめる。これも水で、土であります。


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