ここ二週間、僕はなにをしている

気力がないのかどうなのか分からないが、とにかく寝たきりの状態が一週間続き後の一週間は徐々に回復したような気もする。動けてはいる。動けるのが逆に心配。動けるのだから鬱ではないだろうと自分でも思うのだけど。文字も今打てている。パソコンも触れるし外食もできる。今日はご飯も炊いた。性欲もある。眠れない。ネタと思ったら2,3時間で目が覚める。その繰り返しで寝不足が常。体は動くので今は文字を打っている。だけど慣性というのがとにかく大事で、動かなければ「鬱でも体は動く」ということを忘れてしまう。もう何も考えないまま打っている。動いてなきゃ心がざわつくというか、とにかく焦燥感がぬぐえない。さらには僕は毎回「自分は躁うつ病なんかじゃなくてだらだら症候群なんじゃないのか」と疑ってしまう。でももうそれもやめることにする。長年務めてきた医師が躁うつだといったんだから僕は躁鬱だ。もう自分の一挙手一投足に躁鬱か躁鬱じゃないかと判断するのはよそう。僕は躁鬱で、それは仕方のないことで、これからどうするかが大事ってことで、でも今はうつだから焦らずゆっくり寝ておけばいい。都合のいいことだけ取り入れて自分を満足させ続けるのが僕、いや躁鬱の人生。ひとつ前の記事では500字が限界だった。躁では8000字行くこともあった。鬱は考えてしまう。考えたくなくても。考えると途端に文字を書くのが面倒になり辛くなる。それは言葉じゃない。虚構の何かである。躁でも思考しているにはしているが、なにか自分ではないような感覚だ。とにかくたのしいが眼前にあってそれをただ追うように手が動く。今は通常期に差し掛かっているのだろうか、何も考えずに手を動かすことができる。これが僕の理想である。とは言ったものの僕は理想と思ってこれを打っているんじゃなくて、手が勝手に打ったのである。手が先に動いて「理想」と語ったのならばそれは理想なのだろう。勘や直感には優れている。顕在意識より潜在意識である。だから僕は自分の手を信じる。それが言葉である。薬は処方されて一週間飲んでみてすぐにやめた。危機感であった。ここでも僕は自分の、いやここまで来たら自分のなんて言えないな、もっと大きい何かであろう直感に従った。薬はやめとけって言われたのでやめた。物事をするにあたって理由を聞かれることがあるが、僕はいつもその返答に困る。理由があってやったわけじゃない。感じたからやるのであって。だけどそれを説明しても「なんだそれ」といわれるんで何となく適当な理由を後付けしている。理由ってのは何か論理的なものを意味するのかな、論理とは直感とは正反対みたいな説明をいろんなとこで聞くけど、同じような気がする。わかんないけどね。何度も言うけど僕は今考えてない、まっさら。からっぽでただ文字を打っている状態。理由に縛りづけられる生活は嫌だな。窮屈だ。ほんと、窮屈か窮屈じゃないかだけでいいと思う。そうすれば勝手に得意なものが見つかる。得意なものが見つかれば生活が見つかる。生活とは生きることだけど、簡単に想像するような、息をすることじゃなくて生「活」ですからちゃんと生きることを意味している。かくいう僕もそういったプロセスがわかるだけで達してはいないんだけど。わかんない。でもまだ若いのでゆっくりいこう。危うく死にそうになる時もあるけれど、ほんとゆっくりでいいんだよと何回も自分に言い聞かせる。方法だけはわかるのでちゃんと夢としてではなく生活に落とし込んでみよう。いいね。僕は今日なんにもしていない、だらだら過ごして自分に嫌気がさして「でも鬱だからなぁ」と空を見上げていたんだけど勇気を出してなんも考えないまま文字を打っていたらだんだん光が見えてきた。生活を見つけること。これが僕が今日考えることだ。タイトルも適当に付けてただ打って、そうして広がっていく。目標が見つかったから、といっていつもの僕なら「ちゃんと」紙に書いたり「思考」したりしてしまうがそれでは何かダメな気もすることもわかった。なんでだろうね、なんか現実的に考えてしまうのかな。わかんない。現実的なのは悪いことなのかもわかんない。分からないことはこの先も考えても分からない。いつだって分かるのは脱線しまくった結果シナプスがあとあと結合した時である。だから今考えなくてもいい。早とちりなんだよきっと。まあここでは「現実的思考」は早とちりである、ということにしておこう。僕が得意で(つまり楽で)楽しいと感じるのは夢想的思考であるよ。適当に手が動くまま向かうことである。もう自分が何言いたいのかわからないよ~、なんでなんで~は無し無し。今はわけわからんと思うけど慣れたら俯瞰できると思う。と、いろいろ脱線したけど僕が今したいことは「生活」について試行することだ。ぷぷぷ、自分がやってることにちょっと笑える。こんくらいでいいのよ。気が楽でしょ。段落分けはしない。このままいくのが大事。生活というのは至極現実的なことである。朝起きてご飯食べてそれから散歩して…夜ご飯食べて歯磨きして寝る。みたいな、生きることそのまんまのことを作る。なんで作るかっていうと辛くなるのはいやだから。正直に答える。もう物事に一喜一憂してつらくなったり、不安になったりするのが嫌で仕方ないから、そんなことがもうないように生活を自分で作る。戦略的に作る。単純なことだ。みんな、僕がそうなんだけど、お金のことを気にしがち。将来安定とかくそくらえ。死んでしまえと思う。まあ当人にそんなこと言えないけど、なんで生きてんの?と内心思う。お金は何とかなるので。幸福なことにここは日本ですのでお金がなくて死ぬことはほんとないと思うんですよ。だからお金は気にしない。それよりもお金が少なくても、寧ろ無くても「俺超元気、まじで」って言える生活があるかどうかってことだと思うんだよな。あぁ、これも直観だから別に何も考えてないよ。だけどそんな感じしない?で、何が言いたいかっていうと生活第一ってことだ。生活が安定すると何しても死への恐怖がないのでほんと、神様みたいな感じで人に接することができる。「ああ大変だね、僕には関係ないんだけどね」これくらいのスタンス。何の話だったっけか。生活を探す、というとなんか堅苦しいと自分は思っちゃう。無理もない。僕はまだ慣れてない。ずっと現実的思考しかないと思ってたから、ずっと考えるときは立ち止まってペンとノート持って頭の中で考えてた。でもね、もっと幼いころの自分の価値観とか信じていいの。僕は生まれつき勘や直感に優れていてそれで成功することも多かったんだけど(それは躁うつの特徴)なにせそんな人は多くはいなくて周りがみんな現実的思考の民たちで、そんななか自分を貫くのは難しかったんだろう。いつのまにか僕も健常者のふりをしてたんだけど、それではいつかぼろが出るのね。だから自分を信じていい。大抵いい方向に行くからさ。で、何か物事を考えるに至って堅苦しいと感じてしまうのは、まだ僕が僕に戻れてない証拠だ。これからだね。生活というのは活発に生きることなのかな、とにかく息をするのではなくて何か自発的に生活する?not受動態、能動態ですよってことだと思う。自分から生活しに行くイメージ。このイメージが何より大事なんだ。堅いことは全部フル無視でいい。「何が必要なの?」「どうすればいいの?」これもまだ堅い。イメージなんだからそんな現実的な堅い「プロセス」「順序」みたいなのは存在しない。存在しないというか、してはいるけどだるいってこと。だるいのは一切いらない。明日朝起きたらイメージをして、それから起きたらいい。人それぞれ違うんだから。僕はこのブログを健常者ではなく精神的な病をもった人に向けていると思う。以前初めて精神科に行った時、ここにいる人たちみんな、僕と同じだ。と心で感じた。同人種と感じた。とにかく、別にするべきこととかないし、やってはいけないこともない。自分と向き合う必要もないし、かといって向き合っちゃダメってわけでもない。何でもありです。僕は何でもありが好きです。この好き、というのも大事な要素。自分よりも自分の感覚に注意する。心がふっと動いたものに手を出す。全部都合よくいく。都合の悪いもの、だるいもの、きらいなもの、面倒なこと、全部無視で構いません。そういった生活をすると何度も「それでいいの?」と自他共に問われるけどそういう時は生活、つまり手を動かしていないので、すぐに生活するように心がけること。疲れ感じたらそれはあなたの生活ではないことを知ること。あなたの生活であれば疲れは一切生じない。一度感じたイメージを突き通さなければならないわけではない。イメージとは変わるものだから、生活も変わるんです。とにかく「べき」は窮屈のなので逃げること。戦わないこと。平和主義を突き通すこと。それが生活の義務なのでしょう。ここまで3500字ほど書いたけど言ってることは一つだけ、「楽」することです。それも能動的に。

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