24時間睡眠

「つかれた」と言ってしまう。僕は大学に行ってるわけでも働いているわけでもない。起きて、気が向いたことをして、それで寝るだ。でも確かに僕は疲れているのだろう。いくら寝ても体は重い、いくら寝ても眠い。ベッドに寝転んで自分の体の重さに驚く。一度寝ころんだら、体が浮こうとしない。体内に鉛が沈殿してるみたいに、動かない。いつからこうなったのだろう。年を重ねるごとに、生きるごとに体が重くなっていく気がする。まだ、周りは大学生の年だ。この時期が一番、元気なはずなんだけど。友人の近況を聞いたら、とても僕にはできないことばかりで、同じ人間かを疑ってしまうけど向こうからしたら僕のほうがあり得ないのだろうか。妄想だけなら僕は活発に動けるので、さっさと目をつぶって頭の中で過ごすことにしている。そこには言葉だけが忙しく動いているときもあれば、風景だけが広がっているとき、その両方があるときもある。妄想は僕にとって、もう一人の僕が生きる世界である。その世界にいるときは、現実の僕は生きていない。昨日は、妄想していて、気づいたら現実で一時間経っていた。かけていた音楽も聞こえないほどだった。妄想から帰ってきたことに気づき、耳を澄ますとようやく音楽がきこえてくる。妄想にいる間は、それが妄想だったのかを忘れてしまうほど、そこに順応している。僕にとっては今いる場所が現実なのか妄想なのかもわからなくなるときがある。「胡蝶の夢」というのがある。蝶々になって空を飛んでいると、目が覚める。しかし、本当は自分は蝶々で、今見ているのはその蝶々である自分が見ている夢ではないのか、という話だ。僕はそうやって、当たり前の世界を疑うのが好きだ。そうでなきゃ退屈で仕方がない。そうやって妄想すると、今生きていること自体がすごく儚いと感じる。ノスタルジック、郷愁。夢の世界で知り合った人々を忘れて、現実で知り合った人々と話している。でも本当はあったかも知れない夢の世界での経験をたまに思い出そうとすることに、ある種の郷愁を感じる。そういったことを考えること自体が、僕にとっての一つの妄想である。それは言葉の世界だ。もう一つ、風景の妄想がある。どちらの世界も、僕はやろうと望んで入っているわけではなく、全て妄想の勝手である。一つ、「1」が発生すればそれに連なって連鎖的に妄想が生成されていく。僕はただ寝転んで目をつぶるだけだ。一瞬でも意識が入れば、妄想にノイズやモザイクが入って、僕は「今見ているのは妄想だ」と気づいてしまう。だから、力を抜いて、意識を寝かせて、現実には存在しないことだ。妄想の世界だけが、僕に休息を与える。しかし何度も言うように、妄想に入っているときは、それが妄想だとは気づかないものだ。今の、僕がパソコンで執筆しているこの世界も、現実なのか分からない。風景の妄想は、昨日みた。

濃い木目調の純喫茶。外は雨が降っていて、月明かりが街を照らすだけで歩いている人々も、車のエンジン音も何も聞こえない。僕はカウンター席に座って煙草をくわえる。静寂とした店内に、カランカランと音が響いた。席を一つ挟んで座った男。スーツをびっしりと着ていて、頭には海外のナイトテーブルに置いてありそうなランプを被っている。喋っているのは分かるが、音が聞こえない。それでも僕は相手の喋っていることが分かっている様子で、落ち着いた雰囲気で返している。顔を合わせることはない。店内には、僕とその男、それとマスターだけで、他には誰もいない。暖色のライトが僕たち三人にあたっている。この世界には僕たちだけしか存在していない。コーヒーを飲む。煙草を吸う。うつむいてコーヒーに反射する自分を眺める。マスターも電子レンジを頭にかぶっていて、表情は分からないが、落ち着いているのが分かる。とてもいい姿勢で、グラスを吹いている。

それから僕は眠って、目が覚めたのは4時間後だった。僕はもう一度目をつぶってまた眠る。3時間後に目が覚める。もう一度、もう一度、もう一度。24時間が経った。起き上がり、シャワーを浴びる。パソコンをつけて、執筆をする。この世界は現実だろうか。現実でなければ、僕は少しだけ安心するだろう。現実に不満はない。それでも妄想であるならば、なんとなく救われた気になれる。



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