ある作家にムカついた。殺そうと思ったくらいに。

ノートに書きなぐり、Twitterにうるさいといわれるくらい投稿し、8000字のメールを送信し、それでも飽き足らずnoteに投稿し、chatgptとお喋りを2時間して…。書く衝動が止まらない。衝動というか、呼吸するくらい僕にとって必須で当然のものになっている。今日は朝6時から、自分がうっとおしく思えて、電車に乗ってずっと本を読んでいた。本当はだめだけど、山手線に乗って何周もした。読んでいたのはJ.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』。ここ最近、何かあったのか分からないが、読書はすらすら息をするように出来るし、同様に書くことも自分ではどうしようもないくらい何枚でもかけてしまう。しまう、といったのはこの行動で友人に迷惑をかけたからだ。Twitterがうるさすぎると言うんだ。僕は素直で、自分はよく冗談をいうくせしておいて、他人の冗談を冗談とわかってても、いざ自分に降りかかるとすぐ傷ついてしまう。Twitterのアカウントを消したのもそれが理由だ。今日、さっき消した。でもどうってことない。僕は今まで何度も消してきた。何回アカウント作るんだと突っ込まれるくらいには。今朝自分を鬱陶しく思ったのも、この「素直な自分」に起因する。二日前、尊敬しすぎて行動が縛られるくらい心酔していた作家にメールを送った。縛られていたことに気づかないのも、これは後から話すが、僕の特異性によるものだ。その時は気分が高揚していて作家に8000字ものメールを送ったわけだが、後日その作家さんがTwitterに投稿した文章を見て僕は自分に啞然とした。「みんな原稿送ってくれるけど、そうだなぁ、みんな俺の原稿読みすぎだなっ。似ててもいいんだけどね」。僕はすぐ怒った。その作家に。2年はその人のファンだっただろう。著書はもちろん読み、考え方、行動、すべてにおいて運命だと思って毎日崇拝していたわけだが、それをなんだ。突っぱねて指ではじくような言い方に激怒した。頭に血が上ることは滅多にない僕だが、その時だけは本当に、頭痛がするほどに憤怒した。考えてみれば、多分今は軽躁状態なのだろう。ここ一か月の不眠寝不足も、癇癪具合も、引っ越そうと思い立ったのも、思えば軽躁状態なのかもしれない。でもイラつきはイラつき。ひどくムカついたもんだから、すぐにフォローを外してやった。それで相手に傷がつくかなんて思ってはいないし、そもそも傷つけてやろうなんて低能なことは考えていなかった。ただ自分が怒っているんだとうことを自覚したかったんだと思う。それくらい、僕は空っぽなんだ。自分が何考えてるか見当がつかないんだ。感情もわからない。常に無表情だ。笑う時だってあるけどそれは敢えて笑っているだけだ。それくらい、空っぽだ。その時は気付かなかったが、僕は作家に怒っているのではなくて、自分にイラついていた。結局その作家に依存してただけで僕は何も考えていなかったんだ。今も書いててイライラして頭が痛くなる。僕はなんにもないから、昔から何かを見てはすぐ真似してなりきって、自分の意見なんか一つも出さなかった。もちろん意見することはあれど、それはその人の意見であって(しかも真似事)僕の意見ではない。でもどうしようもないことにも気づいて、それでそのどうしようもなさがイライラになっていた。何がどうしようもないかって、僕は望んで空っぽになっているわけでも、真似してるわけでもないことだ。この不満を特異性というんだろう。この、空っぽで真似するしかなくて自分なんて無いと一生思い悩むことが、皮肉にも僕の特異性、つまり僕の個性であるというわけだ。避けられない。自分の個性だとか特異性というのはポジティブなことじゃなくてネガティブ、不満、コンプレックスなものを言うんだ。だから「私は頭がいいです」とか「器用です、記憶力がいいです」とか或いは「読書するのが好きです」というのを見ると噓だと思ってしまう。正直、反吐が出る。ごめんなさい。本当はこんなこと思ってないんだよ。今だけは許してください。実のところね、今は自覚できてるからまだマシなんだ。これが年をとって躁鬱が悪化すると、もしかしたら自覚できないかもしれない。僕が一番嫌いな、人を傷つけるような輩に気づかずなっているのかもしれない。こんなにも慢性的にイライラしているのは初めてなんだ。多分、ほんの数日前に本当の躁鬱になったんだと思うよ。躁鬱とか、どうでもいいんだけどね。これだって、僕が空っぽだから、たとえそれが病気でも、そのカテゴリーに依存して安心しようとしているんだ。話を戻すけど、そのどうしようもないイライラがあって、窮屈になってきたから朝6時に電車に乗って、何も考えず読書することにしたんだ。心の余裕と読書の時間は比例するとかなんとかって記事を見たけど、確かにそうかもしれないけど、僕は余裕がないときに沢山読むね。文字を追うのって何も考えないでいいからさ、でも不思議なことに没頭できるからいいんだ。それで3時間くらい乗っていたんだ。その中で気づいたことがある。僕は解放されたんだと思う。

アミエルという作家が書いた『人生について』という日記がある。これがまた何も考えないで読めるからいいんだけど、その中に「理解ということ」という日記がある。そこでは「物事を理解するということは、いったん事物の中にはいって、そこから出て来たということである。だから、捕われたあとで解放されることが必要であり、いったんそれに迷い、それから迷いからさめ、心酔したあとでその酔いからさめることが必要である。」

それに続いて、「理解するためには自由でなければならず、しかもそれが必ずしも過去においては自由でなかったことが必要である。」と書いてある。

僕の今回の行動、いやこれまでの行動すべてこの文章に当てはまる。心酔しては裏切られ離脱してを繰り返してきた。これがまたむかつくのは、その対象が悪かったことは一度もなくて、全て僕が勝手に傷ついてきただけである。メンヘラ、考えすぎ、ヒステリック、そう言われる。そんなことないと思っていた。だがさすがに無理があるらしい。僕は勝手に依存して勝手に裏切られたと思って傷つくメンヘラでありヒステリックであり、考えすぎな、ただの厄介男なのだ。あぁ、せめて女性として生まれれば、まだ自分をさらに卑下しないでいられただろう。女性のことを悪く言ってるんじゃないよ。だがアミエルの文章を見ると、少し救われる。僕は理解したのだろう。理解してきたのだろう。これが理解というのなら、学ぶことは決して娯楽ではないな。これは僕が文章を書くという行為についても同じことが言えるだろう。僕は娯楽と思って書いていないのである。書けるから、書いてしまうから書いている。呼吸と同じである。書かなければ生存できないのである。止めようとしても、限界まで息を止めても、最後は自分の意志とは反して思いっきり息を吸い込んでしまうのである。僕にとって書くという行為は呼吸そのものなのである。同時に、理解するというのも。僕は自分の特異性故に(この特異性というのも詳しく後述する)書かざるを得ないし、理解せざるを得ないのである。だから決まって僕の人生というのは仕方ないほど虚無なものになるだろう。それを忘れようと抑圧しようとして依存するのである。それもまた、特異性とやらになる。

「僕の特異性について」
いいかい、僕は本当に、噓じゃなくて、空っぽなんだ。格好つけて言ってるんじゃない。事実として空っぽなんだ。悩める自分が愛おしいんじゃないよ。そういうやつらはいるけど、例えばオーバードーズするのをSNSで報告する困った野郎とかさ。でも僕はそうじゃないよ。生まれた時から空っぽなんだ。母のおなかの中にいるときから。僕は昔から真似ばかりして依存ばかりして生きていた。みんな多かれ少なかれ、アニメを見れば真似事をするだろう。セリフやら仕草やらを。僕もそうだよ。だけど違うのは、僕は自分がそうしたくてやってるわけじゃないんだ。かわいいところはあるよ。気に入ったアニメがあったらどこかから必ず図鑑を持ってきて後日にはすぐ覚えてるんだ、これには親も感嘆していたよ。あとは自分でぬいぐるみをつくったりね。どうにかして空っぽを消そうとして、依存したものを周りに置きまくるんだ。何度も言うけど自慢じゃないよ、子供っぽくてかわいいところもあったと伝えたいんだ。話の本筋はここからだ。そんな子供らしいところはあった、その反面、自分でも理解できないくらい勝手に、異常なほどにそのキャラクターになるんだよ。もう小さい頃のことは覚えていない、というかそもそも記憶の仕方さえ違うような気がするのだけど、とにかくここ数日のことを例に出すよ。僕は最初に書いた作家さんに依存していたんだ。自分でも気づかないくらいの熱中さだよ。離脱してから気づくんだ。あぁ依存してたんだってね。だからムカつくんだよ。またやったのかお前と。まあいい。それで何が異常かって、もう僕ではなくてその作家になっていたんだよ。混乱するよね、大丈夫。ちゃんと説明してくよ。その人がこんなことを言ったんだ。「読書が今までできなかったけど、最近になってようやく読書できるようになった。毎日読んでる。」と言うんだ。そしたら僕も読書するわけだけど、おかしいのは僕も今まで読書するのはてんでダメだったのに、その作家が読めるようになった途端に僕もスラスラ読めるようになったんだ。表面のまねで懲りず、精神、内側のすべてを真似できてしまう。これは僕が真に空っぽだからできる僕の特異性なんだと思うよ。わかってる、特異性というのはネガティブなことさ。僕は一見便利に見えるようなこの真似事という特異性に苦しめられるんだ。みんな、アイデンティティについて考えるとき、どんな感情なんだろうか。それはつまり、どんなスタンスってことを聞きたいんだけどさ。僕の文章を見て、「そんな悩むようなことじゃない」と思う人もいれば「すごくわかる。私も苦しいよ」という人もいるだろう。だからスタンスというのも特異性に必ずしも関係ないとは言えないんだよ。僕が思うにはね。

つまり僕が言いたいのは、僕は自分の「空っぽから生じる異常なほどの正確性、それはもはや変身といえるほどの真似事をしてしまっている自分」を”知覚”することによって起きる、自己アイデンティティの欠如の予感が僕を苦しめていることなんだ。つまり今言った複雑で長い一言が僕の一つの特異性ということ。

書いてて頭が痛くなるけど、これが僕の言いたかったことだ。僕の空っぽ具合をこの目で見てしまうと劣等感というか、それこそ生存危機を感知してしまうんだ。僕の書いてきた記事の文体を一つ一つ見ればわかると思うけど、文体が偏っているだろう?こんなこと僕も言いたくないけどさ。学術書っぽい文体、柔らかい文体、今みたいな口語っぽい文体。僕はね、本を一時間読むだけでもすぐ切り替わるの。これが面白いことに、強制だから、意思に反して無理矢理変わってしまうんだ。そうするとさっきいったように、自分なんてないことにまた気づいて苦しくなってムカつきが止まらなくなるんだ。お前は何なんだと問う。それに対する返答でさえ、僕のものじゃないんだよ。苦しくなるだろう。僕から見るに、こうやって影響されやすい(影響とはずいぶん簡単な言い方だ、僕はこの表現は嫌いである)人は沢山いると思うよ。だけど何故かみんな苦しそうにはしてないんだな。みんな、まるでこれが自分だというような顔ぶりをしている。平気そうにしているだけかな、装ってるだけかな、そんなの無理じゃないか。なんて考えてるんだな。じゃあやっぱり苦しくないのかな。なんでそんなことが可能なんだ。そこまで来て、僕はいつも考えるのをやめるんだな。だってトマトを口に入れたとき反射で嘔吐する奴が、美味しそうに食べる人の感覚なんてわからないだろう。僕だけの話であれば、もしかしたら今までは嘔吐するような食べ物でも、依存対象が美味しいというんなら、僕もその日から食べれてしまいそうだ。しかも心から美味しいと感じてね。『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがあるなら君もわかるだろう、今の僕の話し方、主人公のコールフィールドにそっくりなんだ。ほんとに、愉快だよ。僕の感受性がもう少し低かったらこれほど傷つかずに済んだろう。むしろ楽しくて最高だと思うよ。僕が今まで普通だと思ってたことが、いったん乗り換えるとすっかり異質なものになっちゃうんだ。おかしいもんだよ。多分、もう一か月もすれば僕はこの特異性とやらをすっかり忘れているだろうね。そうしてまた3年もすれば離脱して、また自分は真似だけで空っぽだったと気づくんだろう。

でもね、一つだけ変わらないことがある。僕はそこだけ。本当にそこだけに存在していると思うんだ。それは「書くこと」だ。文体が変わろうと言ってることがちぐはぐで矛盾していようと、それでも書くことだけは変わらないんだ。だから書くことは僕にとって呼吸するのと同じなんだ。楽しいとは思っていないよ。幸せなんて微塵も感じていないよ。書きたいとすら思っていないんだ。でも書いているのはなぜかというと、それは呼吸だからなんだ。呼吸以外に形容できないくらい、僕にとって書く行為は当然のものなんだ。それだけが、拠り所だよ。もし気づかずにいたら今頃僕は首をつっているだろうよ。


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