高校生の思う社会と統合失調症

※これから僕が語ることは個人の見解でn =1に過ぎないので

僕はこの動画を見て統合失調症は決して個人の病なのではなく社会の病なのではないかと思った。

野田さんは仕事場のトラブルで社会との関係が希薄になり”統合失調症”になったのではないか?
このシリーズ(トップページのチャンネルから見れるのでぜひ見てもらいたい)で野田さんは自身が映画を撮られている妄想があるとされていた。
これはニヒリズムが映画というメタファーで出されたのではないだろうか?
このような考え自体はニヒリズム的で存在して然るべきだと思う、だが問題は彼の社会との関係の希薄さにあるともう。
彼は社会との関係が希薄になることで本来、社会的生物の我々がしうる社会との比較が困難になり自分の中の社会が大きくなり過ぎた結果このように側から見たときに異常に見られるのではないか?

それは彼の会話の節々から感じ取れた。
例を挙げるなら、バイトの採用連絡の時のマラソンの件だ。彼の中の社会では至って論理的な会話だったのだろうが、外から見たときに我々の暮らしている社会の論理と彼の論理とに乖離があった結果会話が成り立たなかったのだろう。
しかしハローワークでのグッバイワークのジョークの件で彼に我々的社会の論理を感じ取れた。それはそのジョークが我々社会的論理と乖離していることを知りながら笑っていたことだ。

では彼に我々的論理がありながら精神障害と類されるのは何故だろうか?
それは大きく語ると社会構造のせいだと思う。
そしてこれは青年期的反骨精神では決してないことを断っておく。
彼には比較できる社会がなくなってしまったのだ、そして彼の中の孤立した社会が発達していった。そして彼の社会がますます孤立していき悪循環が生まれる。

彼に必要なものは薬ももちろんだが何より社会との邂逅だ。
彼から節々に感じられたが彼は社会を精神的に必要としていたと思う。
理由はカフェでの喧騒の欲求やバイトの応募だってそうだろう、しかし精神の奴隷である人間として社会を必要とした病める精神を社会は見放した。

彼が反社会的な立場をとるのももっともだ、なんにせ彼は社会に見放されたのだから。そして現代では社会を生きるために少なからずマイナスを負うのが当たり前だといいう主張が多いがそのような社会は理想の社会とは言わずそれを批判するのはもっともだ。それにならばよくする案を出せと言ってくるかもしれないが、靴は靴屋に任せるべきであって政治は政治家に任せるべきなのだ。それをできないのであれば理想の政治家とは言えない。
ここにもっと批判をしたいならプラトンの国家を読んでほしい。

幸せとは私たちが生きているであろうかぎり存在しているであろう社会と同じ幸せを持っていることだと僕は思う。
社会と同じ幸せを持てなかった、あるいは持てなくなってしまったとき、社会は分裂してしまう。そうなってしまったとき、私たちは彼らを含めた幸せな社会を築いていくことはできないだろう。
社会は分裂すればするほど対立を生んでしまう。そうすれば社会の幸せとはますます離れていってしまう。
そうならないためにも私たちは社会から排除するのではなく彼らを社会に連れ戻すことが重要なのではないだろうか。






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