ある脳出血患者の記録3

朝昼晩
 さて、身体はままならないながらも、どうやら病院の暮らしが身についてきたわたしに3食とそれ以外のことからなる、長い1日がはじまりました。夜寝るのはだいたい8時くらいでしたが、夜中の1時、3時、5時と3回ほど目を覚ますのがほとんどで、なかなかうまく寝られません。
 結局、入院の期間中、夜から朝にかけてはほぼ毎日こんな調子でした。
 夜寝られないからといって、昼間寝られるかというと、そんなこともありません。
 たしかに朝食のあとは一瞬眠くなる(ひょっとすると一番眠くなったかも)のですが、1時間もすると午前中のカリキュラムがやってきてしまいます。カリキュラムといっても40分か、長くても1時間なのですが、その時間は寝るわけにはいきません。意識はボケていても一応リハビリのカラミをこなします。午後も、昼食後1時間か2時間前後という、日によって異なる微妙な時間のわりふりに翻弄され、たかが3時間という縛りに拘束されていきました。
 朝は新聞を読んでみるなど、いろいろ考えて試してみるのですが、日によって誰かが先に新聞をとっているともうイヤになってしまいます。(逆に考えればきっとわたしのことをそう思われたかたもいらっしゃったことでしょう。)結局、新聞を読むのはやめてしまいました。食事も、朝はまあ食べるのですが、昼食と夕食はあまり食欲がおきず、だからといって食べなければ食べないで病院では騒がしくなるので、はじめはほんとうに困りました。(もちろん、病院のかたからみれば困ったものなのはわたしのほうなのですが)
 また、特に最初の2ヶ月くらいは自由時間とはいっても、たとえば部屋から食堂まで行くのでも付き添い人が必要でした。まさしく不「自由時間」なのです。自分だけの付き添い人がいるわけもなく、病院の看護士が何人もの患者の対応をしているわけですから、平気で待たされます。(実際には5分もかかっていなかったのでしょうが、待たされる身としては15分にも30分にも思われました)
 そして、これも後になって気がついたのですが、身体になにかついていて、引っ張られる感覚がありました。それが、「装具」と呼ばれるものだということもだいぶ遅れて知りましたが、最初のころはクサリのようで、非常に不自然なものに思われました。
 この病気を経験して書かれた何冊かの本の中には、病院での拘束からずいぶん早く解放されて、自由な時間を謳歌したかのような記述をいくつか見かけます。もしそれが可能であったなら、もちろんわたしもこころざしたに違いありません。世の中には、そうはいかない場合というものがあるのだと、つくづく思い知らされたのでした。
 
リハビリ
 どうにもならない長い空き時間はともかく、3時間のリハビリは必須の日課としてやらなければなりません。
 リハビリについては数多くの方々が述べておられるので簡単にしますが、それぞれの患者に対して、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士が計3時間のリハビリをどのように割りふるか、場合によっては患者をまじえて組み立てを決めていくらしいです。しかし、わたしの場合は病院側でだいたい組んで、「これでいいですね」ということで決まっていきました。わたしにはその段階では、なにがどうなっているのか、わかっているはずもなく、またどのようにしてほしいか、などを伝えることもできなかったからです。
 とはいえ、わたしに科せられた時間割(理学療法80分、作業療法60分、言語40分、たまに理学と言語が60分づつのときがある)は、標準的かつわたしには適切なものに思えました。ただ、時間割はいいのですが当初は言語が午後、あるいは夕方に設定されていて、自分の脳みそが疲労して使いものにならなくなってしまっている時間になっていたので、3月に入るころにお願いして全体を入れかえ、言語を午前中にかえてもらった結果、理学、作業、言語の3科目ともどうやらスムーズにやることができるようになりました。(科目、といういいかたは不適切なのかもしれません)
 それぞれのリハビリでどのようなことをやるのか、も最初はまったくわかりませんでした。言語だけは異質(かつわたし向き)だったので比較的早くにわかりましたが、理学療法と作業療法ではやることの中身がどのように違うのか、いまでも正確に説明することはむずかしいです。このふたつでは患者に対しての施術のアプローチがまったく異なるそうで、よく「理学療法は足、作業療法は手のリハビリ」などと思っている人がいるのですが、そのようなわけかたではありません。
 厳しさを感ずるときもあったとはいうものの、それぞれの先生はそれぞれにやさしさにあふれていたと思います。一番早くそれがわかりやすかったのは言語聴覚士からでしたが、理学療法士と作業療法士の先生からもはっきり感じました。特に、理学療法は3月までついていた男性の先生が若いのに優秀で、心理的な重圧をとりのぞいてくれましたし、4月から変わった女性の先生もやさしさをもって接してくれました。作業療法士は4ヶ月間同じかたが担当でしたが、このかたもやはりやさしく指導してくださいました。
 こうやって、しだいにひとりきりの病院くらしが楽しくなっていったのです。と同時に、家族が決して自分を見放していたわけではなく、なんだかわからないがどうやらがんばれば退院できるらしい、ということがようやくわかってきました。
 
退院
 いろいろありましたが、その年の5月24日に退院することになりました。
 4月半ばに理学療法士その他の方々からそんなふうな話が出てきました。病院としては原則として6ヶ月以上は入院できないこと、またある程度以上預かっても現時点から急激にもっとよくなる見通しがないことなどを判断して、5月末のどこかに決まり、最終的に24日になったのですが、すんなり退院が決まったわけではありません。
 まず、5月に入って家内がこれまで以上に病院に現れるようになったのですが、なんと、わたしは2人で歩いている時に限って転んでしまいます。それまで一人で普通に歩けていたところで、です。最初は、「奥さんが来てうれしいんじゃないの」と笑っていた病院のスタッフも、同じところでまたわたしが倒れてしまうので、「退院はまだ早いか」と思ったようです。
 本当の原因はいまだにわかりませんが、病院内でわたしが動転してしまい、混乱してしまったのがよくなかったものと思われます。
 その他にも、とくに理学療法の観点から4月下旬以降、何度となく外を歩いたのですが、そのたびに歩行にばらつきが出るようになっていました。
 しかしながら病院としてもそろそろ退院してもらわなければ、と思っていたでしょうし、わたしとしてもなんとか退院しなければ、みなさんが手をくだしただけの価値がありません。ということで、5月中旬に1泊での途中外泊を経て、退院の日を迎えることになりました。さまざまなできごとがありましたが、病院のスタッフ以外にも、同僚患者の幾人かにも最後までお世話になりました。本当に、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?