ある脳出血患者の記録6

時間の経過
 入院、退院してから現在までのあいだには、いくつもの時間の流れがあるように感じますが、その流れが早かったか、あるいは遅かったかという質問には、なかなか答えられません。早い部分ももちろんありますが、信じられないくらい長くかかったところもあります。また、時間という価値観が自分にとっていかなるものであるか、という常識の変化も大きく影響しています。
 なんといっても、時計というものを持たされなかった入院期間は、どうやって時間を知るか、ということが生きる価値の一部でした。おそらくわたしの自己判断にすぎないのでしょうが、病院の設備として各自の部屋はもちろん、フロアの公的な場所(食堂など)には置き時計も掛け時計も置いてありませんでしたし、わたしのスマートフォンも(たぶん家内が意図的に)持ってこなかったことを、自分への処罰だと思っていました。したがって、朝目覚めるのも昼ごはんの時間も、自分のカンで何時ごろか見きわめなければならなくなり、最初の2、3週間はまったくあてずっぽうでやっていて大はずれなことばかり。窓から見る景色も(どうやら冬らしいというのは自分でなんとなくさぐっていましたが)北の方角なのであまりはっきりしたことがわかりません。翌月くらいには時間の目安がいくらか想像できてきて、何時ごろかもなんとなく近いズレで済むようになりましたが、狂いはゼロではありませんでした。
 しかし、時計がないならないで、自分の感覚だけをたよりに生きると決めると、あきらめがつくものです。リハビリの開始は時間割表通りに呼びにきてくれますので、それだけを信じて5ヶ月ほどを生き続けました。実にスリリングな日々であったと、あとで思いましたが、不思議なことに家内と病院で再会できた4月末には、もはや時計がほしいとは思いもしませんでした。
 
時間軸のずれ
 とはいえ退院後のいまは、やはり時計なしでは生きていけません。自分が病気になったことによって時期が何年もずれてしまうように感じたのは、退院直後よりも、退院後一年くらいしてからのほうがひどかったようです。最初は職場の同僚などとのメールなどのやりとりでいかに現場のムードに慣れようとしていた部分がいくらかあったのですが、次第にそういう雰囲気が希薄になり、しだいに現実とはかけはなれた方向へと進んでいったのです。そこで、どうやらわたしがボケていたらしいことがようやくハッキリしてきたと同時に、自分が俄然年をとったのだと思うようになりました。いま、倒れてから実際3年がたつわけですが、ややもすると10年くらいの時が流れてしまったかのように思うときがあります。
 もちろんほんとうの歳がそんなに増えたわけではないのですが、周辺の変化のしかたとか知らない人とのやりとりなどで、わたしが年寄りと認識されているように思いますし、自分の経験値はそんなに増えていないのに、年かさのみが増えてしまったかのように感じるのです。
 最初はそんなものか、と思いましたが、それではいかん、とあるとき気づきました。現実の67歳はともかく、まだ77ではありません。あと10年あるではないですか。(77になれば、まだ87ではない、と思えるようがんばります)
 世の中には、自分から見ても気の毒な重症者がたくさんいらっしゃいます。(この病気にかかわらず、です)わたしも、一時は自分もそうなのでは、と感じたことがありましたが、まず自分よりも若くて発症してしまったかた、また、年とは関係なく、疾病のレベルがもっと重度のかたという例をいろいろ見聞きするにおよび、自分がいかに恵まれているかを痛感しました。
 なんといっても、わたしが発症した年齢が、幸か不幸か、自分の人生においても転機となるべき時期と限りなく近かったということが大きかったと思います。
 
自分の姿勢
 自分では自分の姿勢に気づきにくい、とは健常者であったころからしばしばいわれていましたが、要介護の身になってそれがよくわかりました。
 もともと、60歳を過ぎてはじめたスマホゲームのせいでかなり姿勢、というか骨格が曲がっていたのです。倒れる前にすでにゲームは終わらせていたのですが、相当からだがおかしくなっていました。(定年近くなってゲームなんて、いま思えばなにやってんだよ、てなもんですが)職場の近くの整形外科にも毎週通い、けん引やマッサージを受けてはいました。(けん引は1回30kgくらい、かなり重度だと思います)
 いまは、当時に比べれば外的要因によるからだの歪みはすくないと思いますが、歪みはゲームによるものだけではないのは当然で、むしろいまの歪み(内的要因によると思われる)のほうが深刻でしょう。自分の原因なのですが、なにもしなければ非常に醜い姿のままで人前に出なければなりません。もちろんそれは自分でも避けたいと思っているのであれこれ努力をして少しでもマシなポーズをとるべくがんばってはいますが、そのうち元の姿にもどってしまうのが現状です。
 一番好ましくないと思うのはいかにも年寄りっぽく背中が曲がってしまうことで、気をつけているのですが、どうしてもクセが出てしまうようです。そこで、人の目線は無視して自分がどうやって見えているのか、映っているところを可能なかぎりチェックするようにしました。どうやっても美しいとはいえない姿ではありますが、気持ちだけでもどうにかしよう、という姿勢であります。

症状がひかない病い
 そもそも脳出血というのがどういう病気であるのか、それを具体的に説明するのがわたしにはできません。ですから、自分のからだがどうなれば全快したといえるのか、手術はしなくてよかったのか、再発はしないのか、など、不安な要素はたくさんあります。
 それでも、あれこれやっているといくらかよくなってはきたようですが、どうしても頭の右側、右手、右足に残っている痛みは、日によって重い、軽いがあるものの、残念ながらここに書かなくてもよい、というほど軽くはありません。
 病気の症状と直接の関係があるかはわからないのですが、いまだに症状がなおらないのは体の冷え(とくに右手)です。元気だったころをご存知のかたは誰でも知っていることですが、わたしはもともとものすごい汗かきで、冬でも半袖でいるのはあたりまえでした。ところが病気を経てどうもおかしくなり、長袖が手ばなせなくなったのです。入院は冬なので厚着をしていて当然ですが、退院の季節は初夏ですからそれなりに薄着になるべきなのに、自宅内でも半袖だと寒く感じてしまいます。3年目となることしも5月を過ぎて、真夏日になろうかという陽気になっても、やはり長袖を2枚着てしまうような状況で、改善のきざしはありません。
 これは右側だけですので、不随である右半身の問題であることは明らかです。特に、右手側の先端は異常なほど寒気を感じてしまうことがしばしばです。
 あと、からだの左側はほぼ順調なのですが、左手の1ヶ所だけ極度に痛みを感じるところがあります。ひょっとして気のせいかとも思いましたが、そうではないようです。
 
電車について
 人によって徒歩、車、バスなど、病院に行かれる方法はいろいろあると思いますが、わたしは電車に乗って行きます。といっても自分では電車に乗るのも無理ですので、家内の介護あってのことです。
 鉄道会社によっても違うでしょうが、わたしが使っている東京の小田急線を例に書いておきたいことがあります。(妙に数字が出てくるのはお許しください)
 現在走っている一番古いものは8000形というタイプで、わたしはこれが一番好きなのですが、各駅停車ではほとんど使われていないのと、もう数年でなくなってしまうはずなのが残念です。そのあと1000形、2000形、3000形、4000形とあって、外観は違いますが中身はだいたい一緒です。
 ところがこのあとでできた5000形という最新型が、(外観はともかく)内部に問題があるのです。わたしのような障害者は、繰り返しになりますが介助者の助けなしには電車に乗ることもできません。ところがこの5000形は、介助する人が常にうしろにいる場合はともかく、イスにすわってしまうと障害者とのあいだにスキマができてしまうのです。もちろん介助者は本来障害者の世話をするのがその役目ですから、障害者が見えるところにいるのが当然ではありますが、少しは休憩したいときだってあるのではないでしょうか。写真で示すことができないのが残念ですが、たいへんもったいなく思います。
 なぜ最新型なのにこうなってしまうのか、わたしにはわかりませんが、どうか電車を外観だけで作らないでほしいと思う次第です。
 ただ、痴漢対策の観点からはこういう構造がいいのかもしれませんので、一概にはいえません。
 
 これでわたしの脳出血とその後の3年間についてかんたんにまとめたものを終わります。書き足りないことがあるかとは思いますが、それについては読んでくださった方々のご意見なども反映しながら、この先対応したいと思います。
 ありがとうございました。

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