善と悪

「よい」という判断は「よいこと」を示される人々の側から生じるのではないのだ!却って「よい」のは「よい人間」自身だった。換言すれば、高貴な人々、強力な人々、高位の人々が自分たち自身及び自分たちの行為を「よい」と感じ、つまり第一級のものと決めて、これを全て低級なもの、卑賤なもの、卑俗なもの、賎民的なものに対置したのだ。こうした距離の感じから、彼らは初めて、価値を創造し価値の名を刻印する権利を獲得した。

ニーチェ 「ツァラトゥストラ」


「善」と「悪」という概念が、自分を「善きもの」としたい人々の願望から生まれて来ているのだなあと、最近よく思う。

絶対的な「善」も「悪」も存在しなくて、全て人間の意図によって生み出されたものであるのに、なぜ人はそれを基準に物事を語りたがるのだろうか。

「」の中にはTwitterなどで良く対立構造にあるものの名前を入れても成り立つなあと思う。

そして「一斉授業」という言葉だけ切り取っても、そこからイメージするものは人によってズレがあるし、そのズレがあるから面白い。

批判の意味を込めての「一斉授業」と、それを一括りに否定してしまっては良くないと主張する人の言う「一斉授業」では、意味が正反対になってくる。
そこのズレを調整する気がないから、正月の親戚の集まりで口論になるおじさん達のようになる。



冬休みは、時間がたくさんあるので朝から息子のjボードの練習に3時間付き合ったり、一緒に読書したり、昼寝したり。クリスマスにサンタさんから貰った海賊無双をやりまくってゲーム酔いしたら晩御飯を食べに外の空気にあたったり。

心が充実したら学ぶ意欲も湧いてくる。

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