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【エッセイ】人工の島、人造の魂(3)

    ★

 おゆうぎ室の時間でした。
 名前の順番で一つ前だった、いがぐり頭の男の子が、
 これ、あいつに貸したらあかんでえ
 と、私に一冊の絵本を渡してきました。
 それは「スイミー」とか、「100万回生きたねこ」とかの本だった気がしますが、よく思い出せません。
「モチモチの木」とか「かいじゅうムズング」とかは、何だか怖い感じなので、人気がなかった覚えがあります。
 わたしはそれを受け取りながら、信用して預けられた思いで、しっかりとうなずきました。
 あいつ、というのが誰かはわかっています。
 フィローゼでした。

 フィローゼは、きれいな女の子でした。
 だけど名前がカタカナだし、他のみんなとはちょっと違う顔立ちをしていました。
 それで、男の子たちからは、
 ガイジンだ
 と、ひそひそ言われていました。
 あいつとしゃべると、ガイジンがうつる
 などと囁かれていました。

 ところがです。
 私がその人気の絵本を読みもせず、角っこをつまんだままぶら下げていると、他でもないフィローゼが、トテトテ近づいてくるではありませんか。
 私は横を向いたり、後ろを向いたりして、手の中の絵本を隠そうとしましたが、彼女はそのつど、こちらの前へ回り込んでくるのです。
「それ、かして」
 と、彼女はついに手のひらを差し出してきました。
「だめ」
「なんでよう」
 小さな唇をとんがらせます。日本語のうまさは、私たちみんなそれほど変わりませんでした。
「だめだから、だめなんだもん」
「よんでないなら、かして」
 反対側の角をつかんで、無理に引っぱろうとしてきます。
「だめっ」
「かしてよう」
「だめだってば」
 私はとっさに、フィローゼのおなかを握りこぶしで殴っていました。
「ウッ……」
 うめき声とともに顔をしかめ、自分のおなかを押さえながら、彼女はその場にくずおれてしまいました。
 すぐに先生と、他の女の子たちが飛んできました。
 どうしたの?
 たたいたの?
 女の子を?
 どうして、そんなことしたの?
 私は膝を折ったおばさんの先生に、目の奥を覗き込まれていました。
「だって、貸しちゃだめ、って言われたから」
 フィローゼは先生に肩を抱かれながら、ほけん室の方へ何とか歩いていきました。女の子たちはそれを取り囲み、
 だいじょうぶ?
 こわかった?

 だいじょうぶなの?
 と口々に言いながら、あとについていきました。
 たくさんの冷たい視線が、こちらを振り返っていました。
 私は絵本の端をきつくつまんだまま、ただぼんやりと、その場に立ち尽くしていました。

 その日の、お昼になる前でした。
 タカみたいに彫りの深い顔をして、ほっぺたに髭を生やしたお父さんと、薄紫色の布を頭にかぶったお母さんが、幼稚園までやってきました。
 二人は、おゆうぎ室と先生の部屋の間の、園庭に面した廊下の曲がり角で、立ったまま園長先生と話しこんでいました。
 ちらちらと、こちらの様子を窺っている感じもしました。
 そうして他の園児たちが誰も知らないうちに、二人はフィローゼを連れて帰ったのです。
 その日から、彼女が幼稚園にやってくることは、もう二度とありませんでした。

 私は雨の日に、黄色い傘を差しながら、ひとりきりでマリンの前に立っていました。
 足元がひどくぬかるんで、おろしたてのゴム長靴が泥だらけになっていました。
「1979年に、イラン・イスラム革命があったね」
 と、マリンは話し始めました。
「彼女の両親は、シーラーズで貿易を営んでいたみたいだ。かなりの遠縁だけど、シャー・パフレヴィーの血も引いていたみたいだね。だからこの町まで、家族で逃れてきていたんだね」
 よくわかりませんでしたが、自分が彼女とその家族の居場所を奪ってしまったんだという気がして、涙が溢れてきて止まりませんでした。
「はるちゃんが、わるかったのかな」
「それを決めるのは自分だよ」
 と、この「人造の魂」は冷たくもなく、温かくもなく言うのでした。
「カントは、人はみな超越論的自我によって意識を統御されているというよ。それを神と呼んでも、仏性と呼んでもいいけど、いずれにせよきみを裁くのはきみ自身なんだよ」
「はるちゃんは、はるちゃんを許せないよ」
「そうだね」
 鉄でできた首を動かすことはできませんが、マリンはそれでも深くうなずいたようでした。
「きみはこれから一生をかけて、それを償っていくんだね。他の誰に強いられるのでもない。きみ自身が罰を与え終わったと思える日まで、それは続いていくんだね」

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