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「人工の島、人造の魂」第10話(全11話)

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 ある夜の晩ご飯のあとに、お父さんが唐突に言い出しました。
「うちはな、もう、引っ越すぞ」
 どういうこと、と私は首をかしげました。
 よく意味がわからなかったので、へらへら笑っていました。
「引っ越すって、誰がどこに」
「だから、うちの家族が引っ越すんや。違う家へ行くんや」
 お父さんは、食事中にシーハーとつまようじを使います。食べかけのみそ汁に卵を入れたり、お茶碗に麦茶を注いだりしながら、しつこく食事を続けるくせがありました。
 テレビからは、サンテレビの野球中継が流れていました。初めて日本一になってから、阪神タイガースは、また元の弱小チームに戻ってしまったみたいでした。
 冗談ではない、とわかったので、私はみるみる血の気が引き、気持ち悪くなってきました。
 一本の瓶ビールで晩酌しているお父さんとお母さんの方が、今度はへらへら笑っていました。
「そんなことあり得ない」
「あり得ない、やなくて、事実や。もう決まったことなんや。来年早々に違う家へ移るから、しばらくばあちゃんとこへ泊まっとけ」
「こことよく似たところなんよ」
 お酒を飲むとすぐ赤くなるお母さんが、フォローするように言いました。
「埋め立て地やし、高層ビルの団地やし、そんなに変わらんところなんよ」
 違うのです。
 そういうことではないのです。この人工の島と似たような場所など、この世界のどこにあるでしょうか。
 ここは、私が育った町なのです。幼いころの思い出が、はちきれんばかりに詰まっています。それと同じになるものなんか、この地球上のどこを探したって、他に見つかるはずがありません。
「はるは引っ越さない。転校もしない」
 私はきっぱりと言い渡しました。
 両親は顔を見合わせていました。目くばせするような仕草を、二人で繰り返していました。
「なら仕方ない、教えたる」
 お父さんは、やたらともったいぶった様子でした。
「この島はな、元々人間がこしらえたんや。山を削って、海を埋め立てて、自然に逆らっとる。そんなもんが長続きするはずない。お父さんは、役所に勤めとるやろ。そやから聞いたんや。おっきな地震が来たら、この島の地面はひび割れて、水が入ってきて、残らず海に沈んでまう。わしらだけ、今のうちから逃げ出しとくんや。そしたらうまく生き延びることができるやろ」
 バッハッハ、と夫婦で笑い声を揃えるのです。
 それを聞いて、私はたちまちパニックになってしまいました。激しく首を振り、大声で叫びながら泣きじゃくりました。
「いやだ、いやだ」
「何がいやなんや。聞き分けないやつやのう」
「もう決まったことなんよ、仕方がないんよ」
 両親はいつでも結託している。私には何も知らせず、勝手に二人で決めてしまう。こんな大切なことでさえそうだ。本当は、私なんかいらなかったんじゃないか。ずっと二人でいたらよかったんじゃないのか。
「はるは、みんなを置いていけない」
「みんないうたら誰や」
「はるは、みんなと《未来戦争》を戦わないといけないんだ。夢じゃないんだ。現実なんだ。《暗闇の雲》を倒さないといけないんだ。約束したんだ。この島が沈むんなら、はるもみんなと一緒に沈む」
「黙らんかい! このクソガキャ」
 お父さんは、手に持っていたお箸をテーブルに叩きつけました。それはてんでばらばらの方向に跳ね返って床へ転がりました。唾混じりの卵白のかけらが先にこびりつき、てらてらと光っていました。
 そうしてお父さんは立ち上がると、自分の部屋の襖を開け、大きな音を立てながら閉めてしまいました。
 今までも同じでした。何か気に入らないことがあると、すぐそんな態度に出るのです。
 せめて、お母さんは。
 そう思って、救いを求めるようにそちらを見やると、いつかとまるで同じように、瞳のないモディリアーニの絵に似た顔つきをして、いつまでもずっと黙りこくっているのでした。

 クラスで私のお別れ会が催されました。
『はるちゃん、いつかきっと、戻ってきてね』
 と、真ん中に書かれた寄せ書きを、私は贈ってもらいました。

 引っ越した先は、色とりどりに塗りたくられた汚い壁の団地でした。
 低くても十四階、高い棟だと二十六階もある高層団地で、毎年どこかで飛び降り自殺が出る、という話でした。
 その谷間にある小学校には、信じられないくらい意地の悪い子どもと教師がいました。
 男の子たちは行儀の悪い野良犬みたいで、先生たちはひねくれた魔女みたいなのでした。
 私は四年生で他の子たちからいじめられ、六年生で担任の先生からいじめられて、学校へ行けなくなりました。
 地元の公立中学へ上がると、昼前に閉じた校門を乗り越え、家へ帰ってくるようになりました。
 母親がパートを始めていたので、合鍵は持っていたのです。
 昼間から空っぽの家に一人でいると、ようやく自分は生きているんだという感じが持てました。
 私は一人でレコードをかけ、タバコを吸い、ブランデーを飲むようになりました。

 そうして、一九九五年の一月十七日を迎えました。
 早朝五時四十六分。
 空っぽの夢の途中で、背中に激しい痛みを感じ、体が浮き上がるような感じがしました。
 ベッドの脇に置いていた棚から、大量のCDが崩れ落ちてきて、お腹の上に積み上がっていました。
「あんた、大丈夫なん」
 母親が大慌てで、私の部屋のドアを開けてきました。
 起きてキッチンへ行ってみると、ガラス戸棚の扉が全部開き、床が割れたグラスでいっぱいになっていました。
 父親はテレビをつけていました。普通の朝の番組は全て中止になり、無機質な地震速報だけが流れていました。
「これは、どえらいことや」
 やがてテレビに、煙を上げながら燃える埃っぽい町の眺めが映し出されました。
 手前に伸びる灰色の帯は、間違いなく、人工の島と外の世界を隔てていた海峡でした。
 が、画面の中の炎上する町を見ても、私は何も感じませんでした。
 私には感じる資格がないのです。だって、みんなを置いて、自分たち家族だけで逃げ出してしまったのですから。
『神戸大橋、通行不可能。ポートアイランドは完全に孤立』
 という続報も流れてきました。
《未来戦争》は、本当に起こったのです。
 だけど私は、ちゃんとその場にいることができませんでした。
 あの島に残されたみんなを、見殺しにしてしまったのです。
 山ン本先生との約束を、果たすことができませんでした。戦うことも、死ぬことも。
 私は裏切り者として、残りの人生を生きていくことになったのです。

 だから私は、目をそむけ、耳をふさいで、何も感じないようにしながら過ごしていくしかありませんでした。
 過去に対しても、未来に対しても。
 そうして私は、勝つことも、死ぬこともなく、何かを積み上げることも、何かを手に入れることもできないまま、ただただ生き続けるしかありませんでした。
 そうして、長い年月が経ちました。

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