お遊戯 シナリオ 無法者

・自転車のタイヤがパンクしたので修理へ出した。タイヤ交換ともなれば結構値が張ると思ったが、中のチューブ交換だけで済んでしまうらしい。総額二千円足らずで修理が終わった。まだまだ定期代より安い。結局自転車通学の経済的優位は揺らぎそうにない。

・午前中は読書にがっつり時間を割いたのもあってか少し思考のペースがゆっくりになり、多少地に足の着いた集中もできるようになった。結構うれしい。

・今更ながらの気づきで、絵そのものの上手さ、もしくは描き手の納得度って、画面の入力に自分なりの必然性を如何に付与できるかなのかもしれない。「この位置に手が来ている必要がある」「髪の形はこうじゃないといけない」「この色にしなければならない」・・・みたいな。

・正直そういったものをあまり検討せずに「なんか上手くいかないかな~」って気分で絵をかいていたような気がする。本を読んで理論を勉強するときは、その「うまくいく」の打率をあげるためだと思っていたが、どうやらそうではないことが今になって理解しつつある。

・自分の中の納得感と、目的意識の両方が併存する状態を人は「こだわり」というのかもしれない。それは現状維持を固守するような「こだわり」ではなくて、一観客としての「気持ちよさ」を創作しているときの判断材料として失わないような姿勢を明確にする意味での「こだわり」なのだろう。

・それが明確に自分の中で形を帯びていなくても、「どうすればいいのか分からないが、この状態が良くないことはわかる」みたいな判断は創作物を向上ざるうえで必要不可欠な身勝手さだと思う。そうしていくことで自分の制作物にどこまでもストイックになれる。加えてそのストイックさそのものが楽しさにも直結するのではないだろうか。

・ただ、そういったものが一切介在しない「甘え」のような創作があってもいいことは自明の理だ。それが人々の支持を得ようと得なかろうと、「作る」という行為そのものを大人になってしまった自分への「ゆりかご」として機能させることも十分可能だ。実際「箱庭療法」というものがある。創作行為を通じて実人生のコントロールを意識的に戻そうとする試みだったと思う。自分の恣意性を発露することがほぼ無制限に許されている創作行為に、癒しを求めたって良い。

・実際、今私が書いている日記そのものは人目に付くような場所で公開している時点で「表現」としての意味を持つけれど、それと同時に何の校閲も推敲もしていないため「甘え」としての要素をしっかりと持っている。

・今この場で私は赤ちゃんプレイを文字列上で興じてもいいわけだし、逆に大言壮語の限りを尽くして自分を無理やり大きく見せることも可能なのだ。また、自省と内罰を繰り返して自分を奮い立たせるもよし、どんな姿勢だってここに書き出すこと自体は許されている。

・多分、究極的な創作という行為の醍醐味はここに集約されているのだろうけれど、資本主義をはじめとした社会的サイクルに与しないと「意味がない」と捉えられてしまう現代の創作の基軸はやや不幸な気もする。

あくまで金銭をはじめとした即物的利益を獲得するのは二次的なオプションでしかない。ここの優先度をはき違えないように自分を見つめていきたい。

さて、自由を行使しますか・・・。



ポコチンハイドレード!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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