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やっちゃば一代記 実録(35)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 オート三輪から四輪へ
米軍基地に納める野菜の量はポンド単位で、尺貫法に慣れていた大木を戸惑わせた。ポンド当たり何円という表示だから、それを一貫目当たりに換算するのに骨が折れるのだ。いちいち換算するよりは丸暗記することにしていたのだが、立川基地では米兵がオーケー、オーケーと急がせるので、単価の換算も言葉の不明も実際はまったく支障にならなかった。
 立川基地に野菜を納めていた築地市場では大木の他に三業者。その大半を大木が請け負っていたから、持ち込む野菜の量は半端ではなかった。米軍の指示もあって、基地専用の荷捌き場を青山一丁目に設けたが、これは結局、使わず仕舞い。築地市場で集荷と分荷の作業をした方がよっぽど都合がよく、仕事がはかどった。
 立川基地で野菜やほかの食糧を積み込んだ【ロッキードP38】は数分もしないうちに離陸、数時間後には朝鮮半島の前線基地に食糧を投下した。
連合軍の兵士は十九ヵ国約四十万人だが、そのうち米兵は二十五万人。
この米兵の胃袋を大木を含めた全国の十数人の業者がまかなっていたのである。やり方によっては一財産残せたはずだが、算盤が好きでない大木の懐は他の業者ほど暖かくはならなかった。それども一年もしないうちに大木の店の従業員は三十人近くに増えていた。さすがにオート三輪から四輪に買い替えたが、社員の日課は午前二時出社という相変わらずの忙しさだった。
大木は特別手当で社員の労に報いるようにしたものの、帰ってくるはずの車はしばしば遅れた。基地周辺には米兵相手の慰安所があり、そこで息を抜いているらしいことはうすうす感ずいていたが、大木はそれを口にするのは野暮だと思っていた。

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