見出し画像

新興宗教の見学に行った話

切羽詰まっていたわたしを、友人は寺院に連れて行ってくれた。

都内某所、大きな駅を降りて10分ほど歩くと繁華街の奥に広大な敷地の寺院があった。
ゲストカードを受け取り、屋外にある仏像様にあいさつをして、本堂にお邪魔した。

靴を脱いで入り、絨毯が敷き詰められている廊下を進むと、大きな講堂があった。
中はとても広々としていて大きな仏像様が横たわっていた。

初めて行ったときはその美しさと清浄で荘厳な建物にとても感動した。
一緒に合掌し、念仏を唱えてみると心が穏やかになっていった。

それから、度々法要に誘われ、ぜひ入信して一緒に信仰しようと誘われた。

わたしは迷った。彼女と縁を切りたくなかったし、信仰のような精神的な部分で繋がれる友人を切望していたから、わたしにとってまたとないチャンスだった。
まるで赤毛のアンのダイアナのような存在になるんじゃないかと期待した。

でも、断った。
理由は、わたしはクリスチャンだからだ。たいした信仰心もなく、年に一度礼拝に行くか行かないかで、七五三も初詣もやる不教徒ぶりだ。イエスには散々不義理を果たしてきたにもかかわらず、いざ改宗しようとしたり、二つの宗教を信仰するのは絶対にやってはいけない裏切りのような気がしたからだ。

友人は合計4回、わたしを寺院に誘ってくれた。
いつもわたしが悩み苦しんでいるときに誘ってくれて、うれしかった。
彼女は警戒心が強く、外では教えの話は一切しない。自分の心をいつも隠していた。
そんな彼女からの精一杯の提案がうれしかった。

その気持ちに応えたかったけど、わたしは最初にイエスキリストに自分の信仰心を捧げてしまったから改宗には踏み切れなかった。

わたしがキリスト教を信仰したのは、10年前。
とても苦しんでいた時にそばにいた友人からの誘いだった。
その友人は教会を運営している牧師夫妻だった。
とても温かい人で、暗闇の中ひとりもがいていたわたしに救いの手を差し伸べてくれた。
一緒に聖書の話を聞きそれについて語り合う時間はとても幸福だった。

そしてもっと彼女と仲良くなりたい、認められたい、と願って洗礼を受けた。
決して、イエスの教えの道に進みたい、というわけではなかった。
ただ、その彼女との繋がりを絶ちたくなかったから、洗礼を受けた。
安易な行いだったのに、じわじわとわたしを縛り、守ってくれている。

宗教の誘いで金銭を要求されたことは一度もない。
自ら献金をしたり賽銭をしただけだ。
それでも宗教に入るというのは心が縛られていくことなんだと思った。

不自由だけど、わたしの信仰心はイエスに向いているからもう他の神には従わない。迷わないし奪われない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?