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歴史を学ぶことはなぜ面白いのか?

こんにちは!
大学4年生でEletus株式会社CEOの園田雅敏です。
私は、プログラミングを学んでいる社会人向けに歴史の勉強会をやっています。
そのようなことをやっていると、歴史の何が面白いのかたまに聞かれますが、歴史好きとして、改めて考えてみました。
今回はその一部を紹介します。


謎解きという知的興奮

一つは謎解き感覚があるということです。
例えば幕末。いろいろな人たちが残した手紙や日記、書物が、文字情報として前時代に比べても比較的多くのものが残っています。
特に当時を生きた人々がリアルタイムで残した日記や手紙などは、一次史料と呼ばれ、重要視されるものです。
対して後の世を生きた人々が書いたものたちは二次史料と呼ばれて、一次史料より信頼性は低いとされます。

例えば、A会社の創業秘話を創業者が書いたものと、100年後のA会社の従業員が書いたものとでは創業者が書いたものの方が当事者ですし、信憑性は高いわけです。

しかし、創業者のものでも、信憑性が高いと書いたように、あくまで信憑性が高いと思われるだけで、イコール真実とは限りません。
なぜなら、創業者にも感情はあって、「実はあの時こうだったけど、ちょっとまずいからこういうことにしておこう」とか記憶違いとかで事実と異なる場合があるわけです。
これを当時の社会通念や時代背景等と照らし合わせながら資料を読み込んで、ここはこう書いているけど本当か?嘘だと思うならその根拠は?
みたいなことをやっていくわけです。

また、私たちは知らぬ間に二次史料や二次史料を元にしたもの等の影響を受けていたりします。「後世の創作」とか言われるものですね。
具体例を出しましょう。

1.時は1600年9月15日天下分け目の関ヶ原の戦い。
東軍徳川家康は優柔不断な弱冠19歳の小早川秀秋に対して、裏切りを促すために鉄砲を打ち込んだ。それに慌てた小早川秀秋は、突如裏切り西軍に襲いかかる。それに驚いた西軍は総崩れに。。

「おのれ小早川ー!家康はやはり狸だ」
なんてなるような場面です。

しかしこれは、江戸時代以降に作られた二次史料による後世の脚色です。

実態はこう。

2.時は1600年関ヶ原の戦いより2週間以上前の8月28日以前。東軍からの誘いにより、芸に造詣が深いが、酒の味を覚え日々飲み明かしていた19歳の小早川秀秋は裏切ることを決定していたとされる。そして、9月15日。戦闘開始とほぼ同時に東軍についた。終了。なぜ裏切ったかは諸説あるが不明。
鉄砲の話も一次史料には登場しません。

2は真実に近い小早川秀秋の裏切りですが、物語としては断然1のが面白いわけです。だからこそ、小説やドラマでは1の銃による裏切りが描かれるわけですが、これを元に、家康の性格や小早川秀秋の性格等を論じても歴史学的には意味があまりないわけです。

このように、固定概念や前提知識を疑いながら、根拠(史料等)をもとに、仮説を組み立てて歴史を紡いでいくのは、謎解きに近い知的興奮を得ることができます。
そして、ユーザーリサーチやプロダクト開発等にも近く、私がプログラミングを学んでいる人たち向けに勉強会をやっているのもこれが一つの理由です。

本当のところは分からない点

そして、本当のところは分からないところです。
謎は本当の意味で解けないのだけれど、謎が解けた感覚があるが、分からないものとして受け止めるしかない
ここがめちゃくちゃ面白いのです。

分かりにくい表現ですね。
どういうことか。
先ほどの小早川秀秋の裏切りを例に取りましょう。
銃による脅しがなかったのであれば、なぜ小早川秀秋は裏切ったのか?

多くの人が疑問に思うことだと思います。
一説には石田三成のことが嫌いだったというものがあります。石田三成はかつて、小早川秀秋の戦の行動に対して豊臣秀吉に批判的な報告を行ったのです。その罰を小早川秀秋は受けそうになるのですが、その時取り持ってくれたのが家康だったというものです。あり得そうな話ではありますが、これも一次資料では確認できません。

次の説としては、秀吉の妻で小早川秀秋の母親代わりであった北政所(きたのまんどころ)が東軍支持であったというものです。古今東西いつの時代も息子は母親想いの場合が多い。例に漏れず小早川秀秋も母親を慕っており母親の意向に沿って東軍についたというわけです。
しかし、北政所が東軍支持かというと必ずしもそうとは言えない面もあり、確実には正しいとは言えない。しかし、古今東西の例的にもあり得そうな話であるわけです。

このように、私たちはその当時を生きて、生でその現場を見たわけではないので本当のところは分かりません。しかし、歴史を見ていくとなぜそうなったのか様々な謎や疑問が湧いてきます。そして、当時の資料等を見ながら仮説を立てて、一定納得感のある結論を出していくわけです。しかし、その結論はあくまで「説」であり、事実であるかどうかは100%は分からない。この一連の流れの終わりのなさ、限界を感じるところに悲哀もあり非常に面白さを感じるのです。

そして、この本当のところは完全には分からない、確定しない部分があるということは、遊びや余白があるということです。つまり想像の余地がある。自分なりの解釈も可能だというわけです(映画等での考察に近いです)。
もちろん、史料等に基づかなかったり、読み間違えたりといった根拠のない(薄い)解釈は虚構になる可能性があるので、注意が必要です。小説等の読み物としては非常に面白いですがね。

※本当のところは分からないとは言いましたが、確定しているところも、多数あります。
例えば1600年9月15日に多くの大名が参加した戦があったということは、史料からも遺跡からも明らかな揺るがない事実です。ここは出来事であり、疑念の余地がありません。あくまでここでいう「本当のところは分からない」というのは、例えば、この戦の解釈の仕方であって、この戦があったかどうかは本当のところは分からない、もしかしたらなかったかもといっているわけではありません。
(もちろん出来事として本当にあったか分からないみたいなことも場合によってはあります)
念のため。

めちゃくちゃ面白い人がたくさんいる・興味深い話がたくさんある

これはタイトルの通りです。
いくつか例を紹介しましょう。
・戦国時代に本拠地を9回奪われた戦国最弱と称されるが、家臣から慕われ領民からも愛され、戦国期を生き延び天寿を全うした常陸の不死鳥O.Uさん

・恩師から受け取った滞在費用や知人から集めた留学費用を遊びに使いまくったけれど、優れた研究を行い、今現在(2023年)紙幣に肖像画が載っているN.Hさん

・愛人の女性が掃いて捨てるほどいたので、「箒」というあだ名がついた、日本の内閣制度創設の尽力者で初代総理大臣I.Hさん

・アメリカとの関係を大きく変えることのきっかけとなったPさんの兄の子孫が80年後に再度アメリカとの関係を大きく変えるきっかけとなった際のキーパーソンの妻だった

などなど
本当に数え切れないくらいあります。
そして、歴史に名を残すようなすごいことをした人でも思い悩み、ダメなところがあったという事実は私たちに勇気をも与えてくれます。

終わりに

ここまで読んでいただかありがとうございます。
歴史を学ぶことは、過去の謎を解き明かす冒険です。それは私たちを遠い時代に連れて行き、異なる視点で現在を見つめ直させてくれます。歴史のページをめくるごとに、新たな発見と興味深い事実が待っています。そして、それらは私たち自身の物語を豊かにし、未来への道を照らす光となるのです。歴史はただの記録ではなく、生き続ける知識と教訓の宝庫です。
その奥深く知的興奮溢れる謎解きの旅に、皆さんもぜひ今一度足を踏み入れてみませんか?

今後謎解きの旅の様子を発信していく予定ですので、ぜひフォローお願いします!


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