「自信」もください

7/16(火)
時々僕のことを「ポジティブな人間」「八方美人」だと思っている人がいるがそれは正解でもあり、間違いでもある。そんなことは21年間も「僕」という主体をやっている僕自身が一番わかっている。そもそも人間なんてものは社会的な生き物だってどこかの哲学者が言っていたし、どんなに明るくて気さくなヤツでも時には涙で枕を濡らすわけだし、社会的孤立を感じないような人間なんて存在しないし、空はいつだって青いけど最近は雨続きだし昔好きだったあの子には彼氏がいる。

20歳を超えて、いろんなことを考えるようになった。人間とは何か、社会とは何か。就活で自己分析も散々やってきたわけなんだけど、どうやら僕には「自信」が足りていない。別に大学生活は誰かに文句を言われても良いレベルで楽しいし、特に人間関係に悩んでいるわけでもないし、家庭環境が悪かったわけでもない。ただ「自分の為すことすべてに一定の不安要素が募る」ことから僕には自信が無いのだと思う。やはりこういうのは後天的なモノなのかもしれないと過去を振り返るが、別に特にいじめられていたわけでもないし、フラれたこともない。

「普通」の人生を歩んでいたかのように思えるが、果たして普通とは何だろうか。何不自由ない家庭環境に生まれ、幸いなことに小中高大と学生時代は友達に恵まれ、無事就活も終わって2年ぐらい付き合っている彼女もいる。卒業単位はあと4つ。別に誰かしらからすれば羨むような人生なのかもしれない。しかしこの人生をプレイしてきた僕という主体ですら、肝心な「自信」がないのだ。この自信のなさはどこからきているのか?

僕は本当に運動ができなかったから、僕なりに一生懸命勉強をして、高校時代はなんとか上位層まで上り詰めてそこそこの大学に入った。中学高校と全くモテなかったし、別に顔はよくないけどコミュ力があるからモテるようなヤツでもなかったのでモテている奴を見て死ねよとか思っていた。

昔から妙に自分に自信のあるやつが死ぬほど嫌いで、そんなことを考えている僕自身も大嫌いだった。「どうしてこいつは落ち込まないんだよ」と、卑屈になる自分は、いつ消えてもいいと思っていた。大学に入って勉強もせずに遊んだ。そして色んな人と出会った。狭い田舎のコミュニティから抜け出し、新しい世界に飛び込んだ。もちろん今でも卑屈な考えをもつ自分が大嫌いだし、それを文章に起こしたり誰かに喋ったりする僕はなんか面白いので好きでもある。

どんなに誰かといても、彼女といても、孤独を感じずにはいられない。一体となっている実感が湧かない。それは僕の自信のなさが引き起こす一種の「社会的な不安」なのだろうか。別に落ち込んでいるわけでも病んでいるわけでもない。ただただ不安なだけ。自信がないだけ。この最低な社会で泡のように湧き出る「明るいヤツ」は、実は裏で突拍子もなく泣いている。泡は泡沫となって、空に消えていく。

あれも欲しいこれも欲しい。なんでもねだって親に買ってもらえるような子供は、大人になって「欲しがればなんでも手に入る」と思いがちになる。だから、勘違いに似た行動を引き起こして社会から滑り落ちるケースが多々ある。社会は僕たちに何も与えてくれない。それ相応の行動指針がないと、何も手に入らない。僕はずっと求めている。僕以外の誰かに買ってほしいと願っている。友達も、彼女も、お金も、社会的地位も、そんなのはある程度頑張れば手に入る。ただし、「自信」だけはどうしても買ってもらえないから、僕はショッピングセンター2階の床に寝転んでどうしようもなくすすり泣く。


―「自信」もください

#嘘哲学

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