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遊ぶ、ということ。

先日、知り合いの人に誘われて、女同士ふたりで県外にドライブに行きました。 

道中、道沿いの下に川が流れていて、覗くように見下ろすと、河原の石が見えました。

私が、今住んでいる県は、川べりに草が生い茂っているのをよく見かけ、あんな風に無数の小石が散らばった河原を見るのは久しぶりでした。

それを見ながら、昔、夢中できれいな石を探したことを、思い出しました。
その時の、心躍る気持ちも。

雄大な川、千曲川。
その川幅の大きいこと。そこで釣りをしている父の側で、子どものわたしは、小石をどかし、川の水を引いて溜め、釣られた魚の、束の間の「お家」を作ったり、
きれいな石を探したりして、一日を夢中で過ごしました。

無数の小石が広がる河原で、(大抵は)たった一個の収穫のために、一日を使うことは惜しくないのです。
陽の光を受け、輝く様に光る石や、何かに似た形の石、それに、黒曜石の様なものを見つけることもありました。
でも、収穫がない日も、決して残念ではなかったのです。
その一個を見つける過程こそが「遊ぶ」ということであり、わたしはそれを楽しんでいたのです。

中学生になって、周りが大人びていっても、変わらず石を拾い、トンボやカナブンを追いかける子ども。雀を捕まえようと画策したり、
一人での、こうした自然との遊びに没頭したわたしは、幸せな子供時代を過ごしたのかもしれません。 

家庭は複雑でしたが、自然を愛したし、その世界に入り込んで楽しむことのできる人は、幸福な人だと思います。

そんなことを、ドライブ中、車を走らせるわたしのところに、おもひでぽろぽろの回想シーンのように、「昔の幸福なわたし」が遊びに来て思いださせてくれたのでした。

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