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寺田寅彦の随筆「どんぐり」を読んで思い出したこと

寺田寅彦、という人物をご存じでしょうか。明治~昭和期の物理学者であり、随筆家です。夏目漱石が熊本で教鞭を取っていた時の教え子でもあり、俳句も作っていたので、俳人でもある人です。
その、寺田寅彦の書いた随筆、「どんぐり」を読みました。
そう長くはない文章です。既に著作権も切れているので、青空文庫にも載っています。→寺田寅彦 どんぐり
以下、ネタバレを含みます。

私はまんがは溺れるほど読んでいますが、あまり小説などのまとまった文章は読まない方です。なんで?と聞かれたら、まんがが好きすぎて小説やらを読んでる場合じゃないからだよ!と返すしかないのですが。
でも別に、文章を読むのが嫌いなわけではない。でも文章を読んでる暇があったらまんがやゲームをしたい…などと思っているうちに、近年はあまりまとまった文章を読まなくなっていました。

そんな私が久しぶりに読んだまとまった文章がこの「どんぐり」
なんといいますか、思っていた以上に新鮮に読め、かつ衝撃を受けてしまいました。
文字だけの読み物って、面白い!
まず、寅彦のこのエッセイは明治三十八年に書かれたものです。なので、明治のくらしが当然のように書かれているのが興味深い訳です。

あくる日下女が薬取りから帰ると急に暇をくれと言い出した。

寺田寅彦「どんぐり」

せめて代わりの人のあるまで辛抱してくれと、よしやまだ一介の書生にしろ、とにかく一家の主人が泣かぬばかりに頼んだので、その日はどうやら思い止まったらしかったが、翌日は国元の親が大病とかいうわけでとうとう帰ってしまう。

寺田寅彦「どんぐり」

前後の文章を読めばわかりますが、書生である寅彦はこのとき妻がいて、妻は妊娠中という状況です。だけども妻が体調を崩して下女がやめると言ってきて困っている、というくだりです。
情報が多いですね。一つずつ見ていきます。
「書生」というと現代の私たちは「他人の家に居候をして家事を手伝いながら勉学に励む学生」なんかを想像しますが、そうじゃない書生さんもいた、ということがここからわかります。ここでは学生というくらいの意味で書かれているのでしょうね。

そして下女! 下女がいるんですか!
ここの書きぶりからして、下女というのはお手伝いさんくらいの感じなのでしょう。学生さんの家にお手伝いさんを雇えるというのがすごく明治期!という感じ。このエッセイからはお手伝いさんの給料の出どころはわからなかったのですが、常識的に考えれば、実家の支援もしくは寅彦自身に収入があるのでしょうね。
ちなみに寅彦は東京生まれではありますが、幼少期に高知に転居しています(寅彦の父親は高知の士族です)。上流階級の家の子ですし、高校からは親元を離れて勉学に励んでいるので、実家からの仕送りがあっても何らおかしくない印象です。あるいは、もしかしたら、勉強することでお給料が出ているということもありえます。が、やはり実家からの支援と考えた方が自然でしょうね。
ともあれ、Wikipediaの寅彦年表と突き合わせると、この時の寅彦はだいたい22~23歳だと推察。学生で所帯を持って、もうすぐ子どもが生まれる寅彦。
今と比べると、22~23で大学生というと少しのんびりしていたのかなあという感じもしますが、一方で学生結婚で父になろうとしているというのは人生濃ゆいなという気もします。こういった「今と比べると…」という所に思いを致せるのが昔の文章を読む醍醐味のひとつですね。
個人的には、お手伝いさんを頼むハードルがそれなりに高い現代に比べると寅彦の生きた時代はお手伝いさんが当然のようにいて、そこはいい時代っぽいなあと思います。

こんな感じで明治時代の若夫婦の暮らしぶりに思いを致したり、あるいは寅彦とその妻のデートの日に出がけにちょっと揉めるのをニヤニヤ見守ったり、出かけたふたりの歩き方が、寅彦が先にどんどん行って、妻が後ろにつき従って歩く、といった描写に「め、明治……!(寅彦、パートナーは身重なんだぞ!!)」と思ったりと色々楽しいです。

そして、タイトルの「どんぐり」についてのエピソードが出てきます。
おおざっぱに言えば、寅彦夫妻のデートの際に、妻がどんぐりを拾って喜んだのですが、その後その妻は亡くなってしまうのですね。で、妻の忘れ形見の子が少し大きくなった折、どんぐりを拾って喜ぶ様子を見ながら、亡き妻のことを思い出し、また、遺児のこれからの幸福を願うのですよ。

と、寅彦……!(涙)

私は寅彦の最初の妻が若くして亡くなるということは知っていたのですが、寅彦がこういったエッセイを書き残していたのは知らなかったので大いに驚きました。率直な文章から妻子に対するあたたかな愛情、喪われた愛する人に対する寂しい気持ちがバシバシ伝わってきました。
文章が書かれたのは百年以上前。人々の生活様式も社会構造も大きく変わりました。でも、人が人を思うという点は、あたりまえのことかもしれませんが昔も今も何も変わらないのですね。寅彦も書いたエッセイが百年後の私の心をこんなに動かすとは思っていなかったでしょうが、私もこんなに心を動かされるとは思いませんでした。

文章は絵とは異なり、書かれたものを自身の中で想像する余地がとても大きいものだと思います。もしかしたら、だからこそ、鮮明に見えるものもあるのかもしれません。少なくとも、この「どんぐり」というエッセイを読んで、私はまんがを読むときと同じくらい、あるいはそれ以上に鮮明に寅彦の書いたものを受け取り、楽しむことができたのです。
……うーん、文章を読むのも面白いですね!

と、いう訳で、最近の私はまんがも相変わらず読みつつ、文章もモリモリ読むようになりました。まんがを読むよりは時間がかかるこの娯楽が以前はまどろっこしく感じたこともありますが、今は噛みしめるこの時間が味わい深いのだと感じています。
ちなみに現在読んでいる本の一冊には夏目漱石の「吾輩は猫である」があったりします(私は同時に複数の本を並行して読み進めるタイプです)。「吾輩は猫である」といえば、主人公の猫くんの視点で書かれた作品ですが、これに登場するキャラクター、水島寒月くんは寅彦がモデルであるとされています。寒月くんは猫くんの飼い主の先生の教え子です。マイペースで不思議な人、というキャラクター付け。どう考えても寅彦です、ありがとうございました(漱石は来客が多くなって仕事などに支障を来すという理由で、来客は原則木曜日に限るというシステムを採用していたのですが、この寅彦、木曜日は他の客(多くは漱石を慕う教え子等)と顔を合わせるのを嫌がって、木曜日は漱石を訪ねず、木曜日以外に漱石宅に入り浸るという自由な振る舞いをしていた(漱石もそれを許していた)というエピソードがあったりします)。それを知って読むと割増しで面白いです。

さて、この調子で、色々な本を読んでいきたいものです。

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