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#155 捨てられなかった”側”

===「#153 優しいSNS」の続きです。===

 Gravityをダウンロードしてまず最初に自分が呟いた内容をはっきりと覚えていて、それが「自意識過剰な自分とおさらばしたい」でした。今考えると、「来たDMに返信してしまったから」というよりもまず自分の一歩目が間違っていましたね。
 自分の中で踏ん切りがつけられるようになるまではとりあえずたりてる側を目指したいです。自意識過剰な自分を捨てたいです。
 でも、僕がなりたいのは「たりてる人」じゃなくて「たりなさを理解できるたりてる人」です。これに憧れがあって、これになりたくて、これこそが一番の理想なんだと本気で思っていました。なぜ過去形なのかというと、模範解答とすら思えていたそれにある種の「諦めのタネ」というか「もっと考えないといけないこと」があるような気がしてきたからです。

 先週のバイトの暇な時間にふとこんなことを考えていました。

「才能」と「努力で得た能力」の違いなんて側から見たら見分けつかないよなぁ。

これを読んでいる人にはおそらくラジオを聴いている人が多いと思うので、ラジオに例えます。

あなたを「ラジオでネタメールを読まれている職人さんに嫉妬している人」だとします。いろんな番組で読まれててしかも毎週読まれている職人さんのことを「天才だからな」と才能側の人間だと思っていれば、自分のネタメールが採用されないことをメールを送ってる送ってないに関わらずに正当化することができます。なぜなら、「自分の努力がたりてないから能力がない」という結論に達する要素を全部排除できるからです。採用されてる職人さんが努力で能力を得ている側であると慮れてすらいません。

ですがこの国では、努力していることを自分から言う人は「頑張ったアピール・苦労したアピールしている人はキツい」と認識されてしまいます。(僕もその気持ちはよくわかります。)頑張ったかどうか、苦労したかどうかは他者から評価されてこそ美しいもので、そういった自己評価は好ましいとされていません。「努力アピールをしてる人に限って結果が出てない」みたいなことを言う人がいますがそれも別に正論だと思います。(努力してるアピール」とかで検索してもらえるといろいろ出てくると思います。)あちこちオードリーを見ているとたまに「誰かが努力を見てくれている」という言葉が出てきますが、まだあんまり納得できません。おそらく、僕がまだそんな人に会ったことがないからだと思います。(根本として努力をしていないというのもあると思います。)
上の話を適当に表にまとめてみました。

表でいうところ1番の理想とされているのはAです。一方でよく目の敵にされるのはFHです。(本当に努力しているかはわからないので。)ただ僕が思うのは本当に目の敵にされるべきなのはFHなのか?ということです。僕的にはCとかDとかGだろと思ってしまいます。そもそも他者から評価されるのはAEの結果が出ている人だけだと思います。むしろ本当に努力していることを認知してもらいたいのはBFの結果はまだ出てないけど努力をしている人です。「報われない努力は努力じゃない」みたいな意見には僕は反対です。別に僕は「結果より過程が大事だ」と言っているわけではありません。結果が出てこその努力ではあるとは思いますが、それが努力であることは変わりないわけで、それが努力かそうでないかを決められるのは結果に群がった外野のカスではなく本人だけだと思います

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僕は自分の努力を認めてくれる他人がいるとは思えないので、それを自分で言う以外ないよな....と思ってしまいます。ですがそこに自意識過剰が邪魔をしてくるので、僕はそんなアピールできません。(つまり、頑張っているアピールをしている人のことを下に見ているとことにはなります。カスです。)

 話が逸れすぎてしまいました。ハガキ職人さんの例え話に戻ります。努力してると自分で言うことは良しとされていない世の中なので、他人が努力をしているかどうかを知る術はほとんどありません。強いて言うなら、結果が出ている人か信頼関係が構築されている人同士であればそれを開示しても風当たりは強くならないと思うのでそれくらいなんじゃないかなと思います。それくらいでしか努力は垣間見えないので、そうでもないかぎり能力のある人は全員才能側の天才に見えるのだと思います。

 どんな努力を経てその能力を得たのかを側から見ただけでは汲み取れないように、人がその人格に落ち着いている経緯も側から見ただけでは汲み取れません。いわゆる陽キャと呼ばれる人が「どんな人生を送ってきてその性格に落ち着いたのか」や「生まれた時からそうなのか」なんて判断できません。たりてる側の人が「どんあ思考回路をたどってたりてる側になったのか」も「元からたりてる側なのか」も汲み取れません。側からパッと見た時はどちらも同じ「陽キャ」であり「たりてる側」にすぎません。僕がこの先色々考えてたりなさを理解できるたりてる側の人になれたとしても、側から見たらそれはただのたりてる側の人にすぎないんだと思います。僕自身、たりなさから抜け出そうと色々考えたことをnoteに書いています。1年もやれば少しくらいは考えが変わって、たりてる側に近づいてはいると思います。(そう信じたいです。じゃないとやってられません。)ただ僕のnoteを読んでいない人からしてみれば「この人は『たりなさ』が足りねぇな」って思われるわけです。

 そういった「側から見ただけでは汲み取れない努力や思考」で生じる誤解すら嫌だと思ってしまう自意識過剰でたりない自分の人格はどうしたら捨てられるんでしょうか。どうやったら気にしなくできますか。いくら考えても答えが出なくて本当に気が滅入ります。



僕が理想とすら思っている「たりなさの理解できるたりてる人」が本当に良いものであるかは長くなってしまうので後で書こうと思います。


【追記2021.7.1(木)19:55】
努力して能力をつけると、周りから「天才」とか「才能があるもんね」って言われ出すのを忘れてました。この自分は分かってるみたいな感じを出すのなんなんですかね。

以下、話が逸れまくっているので読まなくても大丈夫です。
これと同じようなことが「ブサイク芸人」に対しても言われているなと僕は思います。ブサイク芸人と括って容姿で生まれる‘お笑い”は僕は好きです。ただし、あくまでもお笑いです。それは芸人さん自身が身を投じたお笑いの一つであり、それを昨今の規制を振りかざして外野の視聴者が奪うのは違うと思います。なのに、視聴者がSNSで「ブスで嫌いだから見たくない」とか言うのはお門違いだと思います。でもそういった人に限って、「テレビのブサイク芸人イメチェン企画」とかを見たり、芸歴が長くなって腕っ節だけで戦えるようになった人に対して後出しジャンケンみたいに「〇〇さんは元から顔立ちがいいからね」とか言って手のひらを返すんですよ。芸人さんがその容姿いじりという武器を下ろし、自分なりにしてる努力が少なからずあるはずなのに、それをネットで散々ブスだなんだってバカにしてきたような人が、自分は分かってた感を出して、「元がいいから」って言葉で努力を踏みにじるのが気に食わないです。

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