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誰の心にも響かなくていい話③

 街を歩くと「今の自分にないもの」と「これからもないもの」ばかりが目につく。俺が夜の散歩の好きなところは街の明かりが消えていて人とすれ違うこともないところで、理由を言語化すると“「自分にないもの」と「これからもないもの」を見る回数が少ないから”になる。

 正面から来るおそらくカップルであろう二人組。歩きの女の子に合わせて男がグラグラとよろけながら自転車を漕いでいる。自分があれをすることはこれからもない。
 制服を着た男女が手を繋ぎながら歩いている。自分があれをすることはこれからもない。
 公園のベンチに座って楽しそうに喋っている学生の男女がいる。自分があれをすることはない。
 男子大学生が8人くらいで横に広がって喋りながら偉そうに歩いている。自分があれをすることはこれからもない。
 バイト先の後輩が恋人の話を俺にしてくる。自分がそういうことをすることはこれからもない。

 そういうことをしたいかといえば別にしたいとは思わない。理由がどこにあるか、正直分からない。


 自分は基本1人だから自分の目につく物には偏りがある。街で見かける集団の中にもし自分がいたとしたら、もっとたくさんのことが目に入ってくるんだと思う。じゃあああいう集団の人たちにはたくさんのものが見えてるかと言えばそんなわけがない。あいつらの世の中への解像度が高いわけがない。だけど、それが羨ましくも思える。自分達が楽しいことしか見えてなくて周囲へ迷惑を及ぼしているなんて想像もしていないし、歩道は塞ぐし自分が避けるなんて選択肢を持っていないし、声は無駄にでかいし、自分に自信がありすぎてそれを疑うことをしない。

 恋愛の記事をnote読んでいるとよく「恋人のおかげで世の中の解像度が上がった」というような文言を見かける。だけど、「世の中の解像度が上がる」とはつまり「見えてなかったものが、見えるようになってしまう」だけだとも思う。

 自分の場合は、ラジオと読書が世の中の解像度を上げているなと思う。深夜ラジオやオードリー若林さんのエッセイ、小説。そういうところに影響を受けて、noteを始めて、正直嫌いな人や事柄がたくさん増えた。そしてそれをとにかく言語化して屁理屈を加速させた。もちろん自分のことも嫌いで、それも言語化した。
 自分という人間の内側のことばっかり考え、その言い訳を過去に遡って理論立てて言語化して、色々なことを自分が諦める理由にした。

 自分の中で何が先だったのかがもう正直分からなくなった。
 今の自分の人間性の根源だと思っている幼少体験も、別に無関係かもしれない。
 「恋愛という行為を営むのを早々に諦めた」ことにしてるけど、本当にそうだったかももう分からない。自分の希薄な経験は、自分への自信のなさ由来なのか、自分から動く勇気がないことに由来するのか、それとも本当に諦めて自制していたからなのか、まあ何にせよ自分に好かれる箇所がちゃんとないという事実の証明でしかない。
 自分のことを「自意識過剰だな」と思っているけど、若林さんのエッセイを読んで影響されてそう思い込んでるだけかもしれない。読む前も、言語化される前も、世の中の解像度が上がってしまう前も自分がそういう人間だったのか、分からない。
 昔から他人に妬んだり屁理屈を考えたり自意識過剰だったのか、それとも本を読んでそれらが強まったのか、はたまた本に露骨に影響されてそっちになっているだけなのかも分からない。
 意味もなく殴り書きをしてきたnoteが、記憶をそっちに全部置き換えてるだけの可能性もある。


 自分が意味もなく考えてしまうことは他人に言っても理解はされない。「そんなことないと思うよ、って言われたいだけだろ」とか思われるのも嫌だし、言われたくらいで変われるほど柔な思考はしていないし。じゃあそれを共有しても意味ないよねとも思っている。


 自分が今更したいと思っていることはもう手遅れで、周回遅れの自分は黙って隅っこで細〜〜く息をしていようと思う。


 「今から牛丼買いに行かん?」と言える任意の誰かがいてくれたら、もうそれで良い。恋人に限る必要はもちろんないが、それが異性で、自分の好きな人だったら、もうそれで良い。

 これは今の持論ですが、諦めと自制と屁理屈と妬みと自意識過剰をちょっとずつ寄せ集めて思考をこねくり回すと、人は7年くらいでAVを見ても感情が動かなくなって拒否反応が出ます。だからこそ、上記のようなことを思ってしまいます。

 そして自分の関の山をわきまえると、なおさら1人のままでいいやと思ってしまう。
 自分に付き合ってくれるような人はもっと華やかに楽しく生きててほしいので。





#372  誰の心にも響かなくていい話③

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