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#156 自意識過剰のジレンマ

 「これをやったら負けだなぁ」とは思っていたのですが、数日前、ネットで「自意識過剰 直し方」とかで検索をかけてしまいました。
検索してみての結果ですけど、引っかかるサイト全部ゴミですね。
サイトを開くとやれ「自分のことが好きすぎる」だとか、「自己中心的すぎる」だとか、「内心のナルシスト気質が隠せていない」だとか、「勘違いが甚だしい」だとか、薄っぺらいゴミみたいなことばっかり羅列しやがって。
そんなことで「自分のことが好きすぎる、自意識過剰を言い訳にし使ってるゴミ野郎にバチコンと言ってやったぞ」としてやったり感を出されるのは非常に癇に障ります。
もしかしたらそういったサイトのライターさんは「痛いとこ突いてやったわww」って思ってるかもしれませんが、別にそんなことこっちは知ってんですよ。
自分が「自分に利益のあることとか自分が得することだけを考えてて、自己中極まりない人間」であることなんて、とうの昔に。
自意識過剰な人がそれを治そうしていることに「自己中すぎ」と平然と言ってのけることができるメンタルをお持ちの方々は、周りの人に色々気を使わせていることに気がついてないんですかね?
「周りの目を気にしなくていいんだよ〜どうせこの先の人生でずっと関わる人なんてほんのひと握りなんだしさ」と言えるやつの方がよっぽど自分のことしか考えられてないだろと思ってしまいます。
まあとにかく、それを踏まえた上でどうにかこの状況を脱しようとしてるんですよこっちは。
生まれた時からちゃらんぽらんで、人生で一回も考え込んだことのないような奴らにアドバイスを少しでも求めた自分がバカでした。


===ここから#155の続きを書こうと思います。===

 現時点で僕が一番理想だと思っているのが「たりなさのわかるたりてる人」なのですが、これが本当に良いものなのかをあえて反対の立場から考えてみます。

 「たりなさに理解のあるたりてる人」を理想に掲げている時点でまず純粋な「たりてる人」にはなりたくないという反抗心が現れています。
今まで目の敵にしてきたし、一丁前に高いプライドを持ち合わせているので、せめてもの言い訳として「たりなさの理解できる」という文言をつけてるにすぎないです。
少し極端な話ですが、世界中の人がたりない人だらけだったら、世界はきっと面白くないと思うんですよ。
この場にポジティブな人がいてよかった、コミュニケーション能力のある人がいてよかったと思うことは多々あります。
ただ、「直接的な関わり合いは持ちたくないですよ」というだけです。
でも、「悩まなくて済むならたりてる人にはなりたい」と思ってしまってはいるわけで、そこで頭をよぎるのが「1軍には5軍の気持ちがわからないんだろ」という言いがかりと言っても差し支えのないような5軍側の言い分です。
それを鑑みた結果、「たりなさのわかるたりてる人」という日本語が完成します。
「なりたいもの」が「今まで否定してきたもの」であるという状況が、紛れもない事実として目の前に立ちはだかっています。
僕も含め、自意識過剰な人ってそれを認めたくないんですよ、多分。

 では、5軍が言う「5軍の気持ち」の正体はなんなんだろうか。
「1軍に対してどれだけ気を遣っているか」とか「1軍のどんな行為にびびっているのか」とか「どれだけヒエラルキーを意識しているか」とか「1軍のどんな視線に怯えているのか」そういったことだと思います。
そもそも自意識過剰の正体は「自分が他者に向けてきた否定的な目線が自分に向け返されることへの恐怖そのもの」です。
自意識過剰な人はハナから自分が悪くて、それを脱するためにはまず自分が他者を否定するのをやめなくてはなりません。
それでも否定的な目線を向けるのをやめられていないのに、それでいて自分は否定的な目線を向けられたくないと思っている。

1軍は5軍に気を遣ってもらってることに気がつかない。
5軍は1軍に否定的な目線を向け、逆にそれを向け返されることに怯えている。

ここで一つ仮説が生まれました。
それは「良くも悪くも、ヒエラルキーを気にしてるのは5軍だけなんじゃないか」という説です。
生また時から1軍の、ヒエラルキーのトップにいて気を使われることが当たり前になっていて、「ヒエラルキーを気にしていない」というよりもむしろ「ヒエラルキーが見えていない」んだと思います。
そこに「たりなさのわかるたりてる人」という存在を当てはめてみます。
「5軍の気持ちのわかる1軍」と「1軍」を比べたとき、そこには「ヒエラルキーを認知しているか」という圧倒的な差があると思います。
そこで手を差し伸べられるのが「たりなさのわかるたりてる人」だと思うんですが、それっていい人なんですかね?
もしかしてめちゃくちゃ性格の悪い人だったりしませんかね?
ヒエラルキーで下にいる人がいることを知っていて、「(5軍の気持ちのわかる)1軍」の自分に気を遣う5軍の人がいることも知っている。(その人が「1軍」か「5軍上がりの1軍」かどっちかなんて側からみただけではわからないので。)
でもそういった目線にすら怯えているのが自意識過剰な人であって、「それはもう仕方ないよ」と割り切れるようではそんなの「たりなさのわかるたりてる人」じゃなくてただの「たりてる人」ですよ。

「わかる人にはわからない理由がわからない」がよく馬鹿にされる世の中だけど、「わからない理由がわかる、わからないように見える人」も同じくらい馬鹿にされるものな気がしています。



 「それでもお前、たりてる人を目指してんじゃんwwはい俺の勝ち〜」という意見をお持ちのカスの皆さんもおられるかと思うのでその人に向けて。

 「たりないふたり」という南海キャンディーズ山里さんとオードリー若林さんによるユニットがあります。
その解散ライブ、「明日のたりないふたり」でお二人が導いてくれた答えは「たりないままでいい」という衝撃のものでした。
今までずっと何とかそれから抜け出そうとしてきたのに、最終的な結論が「それをしなくてもいい」だったのがとても衝撃的で、ずっと「どうにかしてたりなさから抜け出す」か「たりなさからはどうしても抜け出せない」の2択だったのに「別にそんなことしなくてもいい」という3つ目選択肢が目の前に現れました。
その3つの選択肢のどれに誰がいつAボタンを押すかは自由で、お二人の結論が「たりないままでいい」「別にそんなことしなくてもいい」だったからといってそれを観た視聴者側が「3つ目の選択肢にAボタンを押さないと!」と半強制的にそうするのは多分お二人も望んでないと思います。(僕が勝手に思っているだけです。)
あくまで僕の考えですが、この「たりないままでいい」という結論は「今の足りない部分をそのままにしていい」という意味ではなく、単純に「足りない部分があってもいいよね」という意味だと僕は思います。
「結婚もして、MCもバンバンやって、もうたりなくないじゃん」と言われ、「さよならたりないふたり」の時に「これからは妬み嫉み以外で戦う」「他人の結婚を祝えるようになった」という理由で一旦たりなさから卒業していました。
さよならたりないふたりの2回目の漫才の終わりでお二人が「楽屋挨拶を迎える側になって、今度は偉そうに思われるのが怖い」という話をしていました。
ここに、自分がHuluで見返した初期のたりないふたりと似たような雰囲気を感じました。
世間から見れば、お二人はもう結婚してMCもして「たりてるじゃんww」と言われるのかもしれませんが、そこには明らかに「新しい別のたりない部分」というものが存在していました。
さよならたりないふたりの最後で言っていた、ふわふわとした「たりないふたり第2章」という言葉が、「明日のたりないふたり」を通して実態を伴ったような気がしています。
つまり、「たりない部分を1つなくしたとてまだまだたりない部分は存在するし、1つ潰したとしても新たなたりなさは出てくるし、完全なたりてる人は目指さなくていいし、もはや目指せない」ということでした。
それは「たりてる人」にも「たりなさのわかるたりてる人」にも、どちらもなれないですよ〜という現実でしかありません。
ただこれはたりなさを克服するのを諦めてそういった努力を怠っていいという理由にはならないと思います。
(ハッシュタグを追っていたら、「もうたりない部分は直さなくていいんだ!」みたいな意見を少し見たので、自分が正しいとつけ上がっている訳ではありませんが「それは少し違う気がするな....」と思いました。)

 僕が目指すべきだったのは「たりなさのわかるたりてる人」なんて曖昧で大きな括りじゃなくて「山里さんと若林さん」なんですよ、多分。



 これからも尊敬してます。



 たりないふたりの話に入ってから、話が脱線しまくってしまいました。この文章を書き始めた時に何が書きたかったのか、どんな結論にしたかったのかまったく覚えていません。この文章を書き始めたときはまだ「たりなさのわかるたりてる人」を目指していた気がしますが、書き終わった今は諦めが少しついた気がします。「別にそんなことしなくてもいい」にAボタンを押す一歩手前にいます。これを押す勇気を僕にください。



 とりあえず、初めてnoteを書いた日から今日でちょうど1年経ちました。コ□ナ禍だったし、バイトもしてなかったし、時間が豊富にあったこの一年で色々考えたまくった結果がこれです。この1年間、すごく自分のことを考えてたなぁ....と思います。若林さんがnoteを始めるまでnoteのことを知りませんでした。若林さんのnoteを購読するためにこのアプリをダウンロードして、それに伴ってnoteを書いていたTwitterのFFさんに感化されて僕も記事を書いてみました。一年たって今もnoteを書き続けている人も少ないですが、少なくとも僕はこの一年noteを書き続けてよかったなと思います。この一年、noteを書くのに何時間費やしたのかは分かりませんが、後悔はしていません。これからも気の向いた時に適当に書こうと思います。


初期の頃のnoteを今読むと、流石に一年続けただけのことはあるのかな....と少しだけ思います()。



長々と失礼しました。
書きすぎて疲れたので
暇な時間に校閲・推敲したいと思います


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