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#112 「自意識過剰」を考える。

「自意識過剰」とは

自意識過剰(じいしきかじょう)とは、人が他に対して自己を意識し過ぎた状態。他人が自分をどう見ているかを気にしすぎる状態。 人前でスピーチをする時などに、他者の目を意識するあまりの極度の緊張状態は、あがり症と言われている。反意語として無意識過剰という言葉が存在する。 テロリストには自意識過剰者が多いと言われている。(出典:Wikipedia-『自意識過剰』

(俺ってあがり症なんだなぁ、ってこれ読んで気づきました。)


要するに、「自意識過剰」は周りの目を気にしすぎてしまうことを指します。この類の話は幾度となくnoteに書いてきました。自分はこうこうこういうワケがあって人の目が気になって、だからこういう行動をすることしかできない。だから自分がこうなのは仕方がないことなんだと自分自身を肯定することしかしてきませんでした。

でも今回は逆の立場に立って自分自身を否定する側で書いてみようと思います。


自意識過剰はブーメラン

単刀直入に、他人の意見が気になってしまうのは自分のせいかもしれないって考えたことありますか?
恐らくですが、自意識過剰な人は他人が自分のことをどう思ってるか考え出したら溢れるように出てくるんじゃないかなと思います。
でもその視線を一番向けているのって、もしかして自分じゃないですか?
「発表の途中に内容が飛んで喋れなくなったらどうしよう」って思ってる人ほど、他人が発表で詰まってしまった時に「あっっっっ、こいつ詰まったな」って思ってませんか。

Twitterを眺めているとたまにツイキャスをしている人を見かけます。
僕のnoteのプロフ欄に書いてある通り、「会話のネタにでもなればな」くらいの感じでメモみたいに書くというコンセプトで書いています。(後付けです。)
でも喋る友達がいないのでほとんど役に立っていません。
構成立ててしっかり話す練習みたいなのもちゃんとしたいので、ツイキャスとかみたいな音声で伝えるものに興味はあります。
でもツイキャスは視聴者数とかがバッチリ数字で出ているのでそれを見たなんとなくリンクを踏んだ人たちに「視聴者少な。人望ないんだなこいつ。」って思われないかとか、ツイキャスしているのを見かけた人に「誰がお前なんかのキャス聞くかよ雑魚が。」って思われないかが気になって、結局踏み出せません。
月初めに「# リプ送った人に一言」みたいなタグを呟いている人を見かけます。
高校生の時からですが、この類のタグを自分でツイートする勇気が出ません。
「お前からの一言に誰も興味ねぇよ」って思われてたらどうしようとか、「こいつリプ全然ついてねぇやん人望ないな」って思われてたらどうしようとか、「お前のことなんか誰も見てねぇよ」って思われてたらどうしよう。
そんなことが頭の中をぐるぐるした結果、結局ツイートはできません。
でもこういった視線を自分がもしかしたら率先して他人に向けてしまっているのかもしれません。
そうでもないとこんな見方、考え方は湧き出てこない気がしてなりません。
こんなふうに思われてるのかな。こんなふうに思われたらどうしよう。
他人にどう思われてるかを気にする人が一番他人に視線を向けてて、他人に気を張って、それでもってそれが自分にブッ刺さることを恐れている。
もうそうとしか思えません。

ごめんなさい。自分を擁護したい気持ちがちょっと強かったです。

自意識過剰な人ほど、自分が向けられたくない目線を、自分自身が向けているものです。
自分のミスを嘲笑われたらどうしよう、と思う人ほど他人のミスに敏感で。
自分の世間体を気にしている人ほど、他人の世間体にも敏感で。
自分が気にされたくないことも、他人の’それ’には敏感で。

「意外とみんな気にしていないよ」と言われても、心の支えにはならない。
だって自分は他人のミスを意外と覚えてるから。

本人の前で口に出されることに本心なんかないわけで。
心の奥で思ってること、本人がいないところでどんな悪口を言っているのかを知らないと意味がないわけで。
言ってることと思ってることが違うことは自分にもあるからこそ、他人のミスを自分が覚えてるからこそ、「意外とみんな気にしてないよ」は信用できない。

自分が自分の判例なのは自己中以外の何者でもない。
こういうところを治していかないと。

人からの見られ方が命のこの世の中で。
今のカーストから落ちないことが何よりも重要なこの世の中で。
現実世界で生きている限り、脱ぎ捨てられる’側’もないですし。

自意識過剰は‘自’で留めないと。

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