聖書に書かれていること

聖書は66巻から成る書物です。この66巻は、前半39巻を「旧約聖書」、後半27巻を「新約聖書」と呼びます。

旧約聖書は、イエス・キリストが生まれる1500年前〜500年前(紀元前15世紀〜)に書かれたもので、ユダヤ教の聖典として、ユダヤ教の預言者たち、今では彫刻像で知られているダビデや、智慧の王と言われたソロモンを含め数多くの著者たちによって各書簡が記されました。ユダヤ教のなかで後に生まれるイエス・キリストももちろんこの旧約聖書を読んでいましたよ(そう、私たちはイエスが読んだものと同じ書物を現代も読んでいるのですね!)。

新約聖書は、紀元50年代〜90年代にかけ、イエス・キリストの弟子としてキリストと生活を共にしていた者たち、あるいはローマ貴族だったパウロのように、当初はキリストを迫害していたのに、のちにキリスト教を信仰しクリスチャンとなった者たちなど、やはり複数の著者によって記されました。

聖書とは、道徳の教えとか規律を守りなさい、というような仏教の経典、コーランなどとはまるで違います。聖書に書かれているもの、それは私たちのようにどうしようもなく弱い人間たちです。もう、これでもか、これでもか、というほど次々にそういう人たちばかりが出てくるのです。食べてはいけないという木の実を食べ神に問いただされた時、それをイブのせいにしたアダム、そして蛇のせいにしたイブを始め、優秀な兄弟を妬んで弟を殺してしまったカイン、民を率いてエジプトに逃げよ、と神に言われたのに、私には無理です!と全力で抵抗したモーセ、自分にふりかかる病と不幸を嘆いて、自分なんて生まれてこなければよかった、と神を恨むヨブ、キリストの教えと奇跡を日々目にしながらも、キリストを最後の最後まで信じられなかった弟子たち等々、数え上げればキリがありません。
なので、読んでいると、いつも誰かの言動が自分に当てはまるんです。この弱さ、私にもあるなあ、わかるわかる、と。
しかし神は、彼らすべてに働かれ、最悪の状況をすら用いて最終的な益としたり、頑なな彼らの心のうちに働かれて、彼らに知恵と信仰を与えます。それはもう本当に忍耐強く、神は彼らに働かれるのです。それでも私たち人間は、日々の神様からの助けに気づかず、無頓着で、なにか良いタイミングで良い出来事が起こったり、好転したとしても、ラッキー!とか、運がよかった!で済ませてしまうのですね。神は日々、あなたに働かれています。そのことに敏感に気づきたいです。日々の感謝も増えますね。

聖書は経典ではなく「神様からのラブレター」だとクリスチャンは考えます。
こんなにどうしょうもなく、毎日反省しては翌日また同じことを繰り返してしまう意志の弱いダメダメな私たちをこんなに愛し忍耐強く導いて守ってくださる、ということが聖書全体を通して書かれているのです。

聖書には、365回も「恐れるな」と書いてあるといいます。「私があなたの神だから恐れるな」「わたしがあなたを守るから恐れるな」と。

聖書は人が書いた物語でしょう、伝承でしょう、人に都合の良いように書かれただけでしょう。そう思うかもしれません。私もクリスチャンになる前はそう思っていました。

しかし聖書を学ぶにつれ、聖書はなんて不思議な書物なのだ、と思うようになりました。

聖書は、神様からのラブレターであると同時に、預言の書でもあります。

ヨゲン?あのノストラダムスの予言のような?胡散臭いね。。当時、聖書を知らなかった私の第一声です。

聖書の66巻は1500年ほどを通して、まったく互いに関連性のない、お互いに見ず知らず、住んでる国も違う、生きている時代も違う人々によって書かれました。なのに信じられないほどの一貫性があるのです。クリスチャンは、聖書を神の霊感によって描かれた書物だと信じます。その時々の人々に神が働かれて書かれたのだと信じているのです。

預言。予言ではありません。預言とは、神様から私たちに託された言葉であり知恵だと考えます。聖書の中の預言はおよそ3000個。まだ私たちが迎えていない未来について記されている預言も含みます。

成就した幾多の預言の中でも、私たちにとって福音(グッドニュース)とされるのは、イエス誕生についての預言です。イエスについて、旧約聖書には108個の預言が記されています。

イエスが誕生するおよそ800年前に、預言者イザヤという人物がいました。そのイザヤによって書かれたイザヤ書というものが旧約聖書の中にありますが、ここに、将来誕生する神の御子イエス・キリストの生涯が預言されています。イエスが誰からどのように、どこで産まれ、イエスを通してどんな事件や出来事があり、奇跡の行いをし、最期はどのように十字架にかかり死に、そしてどのように3日目に蘇るのかが具体的に詳細に書かれています。

当時、イエス・キリストをアンチと敵視していた多神教のローマ兵がイエスに行なった暴虐の言動までもが事細かに最初の中に預言されていました。当時、多神教でギリシャの神々を敬っていたローマ兵たちにとって聖書は異教の書物ですから読みませんし内容を知りません。イエスを神だと認めようとせず、イエスを敬う民衆たちをコロシアムでライオンの餌食にするなど暴虐を働いていたのです。なので、聖書の預言が成就する=イエスは神だ、の公式が出来上がってしまうことはなんとしても避けたかったはずです。なのに結果として、ローマ兵たちの言動は、事細かに聖書に預言されたとおりのものだったのです。

1958年、数学と天文学の教授であるピーター・ストナーという人物が、このイエスについての預言の実現の確率について計算したところ、108の預言のうち8つが実現する確率でさえ、控えめに言って100,000,000,000,000,000分の1(十京分の一)であると結論づけたそうです(Youversionより抜粋)。

でも現代の私たちは「そんなことを言っても、後世の人たちが事実に合うように後に中身を書き換えているんでしょう?」と思うかもしれません。私はそうでした。

でも、聖書には、内容を書き換えられない背景があります。というのも、当時のユダヤ人たちも、現代同様にとても勤勉な信仰者たちであり、厳格にルールを守ること=立派な信仰者であると考えている彼らは、聖典(旧約聖書)を毎日、一日何回でも皆で一緒に読んでいました。毎日シナゴーグ(会堂)に集まり朗読も聴きました。ですから皆、このイザヤ書ももちろんのこと、旧約聖書全体を暗唱できるほどによく知っていましたし、理解していました。そして皆、イザヤ書に記されているとおりに、神が救い主として送ってくださるイエスの誕生も待ち望んでいたのです。

それが毎日毎日、綿々と数千年も続いていたなか、どこかの時点で誰かが内容を書き換えたら、必ず誰かが気づきます。聖典として崇めている経典を書き換えたら大問題になるでしょう。誰かが違う内容の聖典を持っていた、自分の暗唱と違うことを唱えていた、となれば、その者は異端者です。

例えばある仏教の経典の内容を、ある日どこかのお坊さんやお寺が書き換えたら、ほかのお寺のお坊さんや檀家さんが誰かが必ず気づき、あのお寺で詠んでいる経典はおかしい、となりますよね。

そして印刷技術のなかった当時、聖本とされる聖書の写本には、何百人もが携わっていました。1ページ書き写されるたびに、それを数十人が順にチェックして書き間違いを正すのです。

ですから聖書は書き換えられません。何千年も途切れることなく毎日大勢に熟読されている書物は書き換えるチャンスがないのです。

1946年に、ヨルダン川西域の死海近くの洞窟で、ベドウィン族のある少年が、古文書を偶然見つけました。それは972本の写本、10万枚以上の紙片から成り、羊皮紙やインクを調査した結果、それは2000年前に書かれた旧約聖書だと認定され、「死海文書」と命名されました。膨大な量の巻物のため、現在も研究が続けられているそうですが、死海文書と現在私たちが手に取る旧約聖書はほぼ同じだそうです。これは、二十世紀最大の考古学的発見と言われています。

イエスは、イザヤ書の預言どおりの場所、預言通りの膨大に連綿と続く家系のなかで誕生しました。

ですが!当時の人たちは誰も信じなかったんですね。待ち望んでいた救い主があらわれ、自分たちが読んできた預言がいま成就され、いま目の前で起こっているのに、誰もそれを信じなかった様子が新約聖書に書かれています。

これは私の想像ですが、救い主というのは、突然に華やかに、誰でもそれとわかるように神々しく目の前に現れるものだと思いこんでいたのではないでしょうか。

しかし、神は人間の思いを遥かに超えることをなさる方です。ご自分の独り子を、当時世間でも最も最下層と見做されていた労働の民の夫婦の間に、最もか弱き赤子として、行きずりの貧しいとある農家の納屋の中に誕生させました。

神はなんでもできる方です。それなのに、神として偉ぶるでも降臨するでもなく、私たちの元にへりくだり、私たちの立場に降りて来てくださる方、それが聖書の神です。

この聖書の確かさと信憑性について知ることが、私にとっては聖書の神様を信じるきっかけの一つになりました。

(イザヤ書7:14 イエスの誕生についての預言)
しるしは主が決めます。見ていなさい。処女が男の子を産みます。彼女は生まれた子にインマヌエル(「神が私たちとともにいる」の意)という名前をつけます。

(イザヤ書 53:1‭-‬12 イエスの誕生と十字架の死についての預言)
しかし、それを信じる人は なんと少ないことでしょう。 だれが、耳をすまして聞くでしょう。 神はだれに、救いの力を示すのでしょう。 主の目には、彼(イエス)は不毛の地に芽を吹いた 柔らかな新芽のようで、 私たちの目には、 心引かれるものは何一つなく、 慕うようなものもありません。 私たちは彼をさげすみ、受け入れませんでした。 彼は悲しみの人で、 苦しみをなめ尽くした人でした。 私たちは彼に背を向け、 そばを通っても顔をそらしました。 彼が侮られても、そ知らぬふりをしていました。 しかし、彼は私たちの悲しみを負い、 私たちの嘆きをにないました。 私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して 神に罰せられているからだと思いました。 しかし、私たちの罪のために傷つき、 血を流したのです。 彼は私たちに平安を与えようとして、 進んで懲らしめを受けました。 彼がむち打たれたので、私たちはいやされました。 私たちは神の道を離れ、 羊のようにさまよい出て、 自分勝手な道を歩いてきました。 しかし神は、私たち一人一人の罪を 彼に負わせたのです。 彼は痛めつけられ、苦しみ悩みました。 それでも、ひと言も語りませんでした。 子羊のようにおとなしくほふり場へ引いて行かれ、 毛を刈り取られる羊のように、 非難を浴びせる者たちの前に黙って立ちました。 人々は彼を裁判にかけ、刑場へ引き立てました。 はたして、彼が死ぬのは自分たちの罪のためであり、 身代わりに罰を受けて苦しんでいることを 知っていた者が、その時代にいたでしょうか。 彼は罪人扱いを受け、富む者の墓に葬られました。 悪いことをしたわけでもなく、 悪いことばを口にしたわけでもありません。 彼を傷つけ、悲しみで満たすのは、 主の計画だったのです。 罪の赦しのためのささげ物として、 そのたましいをささげるとき、 彼は多くの子孫を見ることができます。 彼は復活し、 神の計画は彼の手によって成し遂げられます。 彼は、自分のたましいが苦しみもだえた末、 神のみわざが実現するのを見て、満足します。 「わたしの正しいしもべは、 このような苦しみを経験して、 多くの人を神の前に義とする。 彼(イエス)が人々の罪をすべてになうからだ。 それゆえ、わたしは 彼に、 偉大な勝利者としての栄誉を与える。 彼は進んでいのちをささげたのだ。 彼は罪人の一人に数えられ、多くの人の罪を負い、 罪人のために神にとりなしをした」。

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