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ユビキタスな「信仰」社会(1) −「信じる」ことは「手放す」こと?−

いきなりですが、「信仰」という言葉を聞いて、どんなことをイメージするでしょうか?

神様や○○教など、宗教的なことをイメージするのが一般的かもしれませんね。
もう少しカジュアルで形で言えば、特定のアーティストやアイドルを好きになること、肉や魚を食べない「菜食主義」、身の回りをアップル製品で固める「アップル教」なども、一つの信仰と言えるでしょう*1。

このように、仏教やキリスト教といった本物の宗教から、「何かに特別な思い入れを持つ」といったレベルの「宗教」まで、現代社会には「信仰」が偏在していると言えます。

ところで、前々から思っていたのですが、「信じる」ってかなり無責任じゃないですか?

あるとき、上司から「君はこの仕事ができると信じている」と、部下であるあなたに大変な仕事が回ってきたとします。
ですが、既に他の業務でいっぱいいっぱいだったあなたは、結局期日までにその仕事を仕上げることができませんでした。
このとき、「仕事を仕上げられなかった責任」は誰にあるのでしょうか?
確かに、直接的には仕上げることのできなかったあなたに責任があるのかもしれません。
ですが、「信じている」とだけ言って仕事を振った上司に責任はないのでしょうか。

僕がここで言いたいのは、無茶振りする上司滅せよ、ということではなく、なぜ「信じる」のだろう、「信じる」ってどういう意味があるんだろう、というのを「信じる主体(上記の例では上司)」側に立って考えてみたい、ということです。

まず、「信じる」という行為を行う理由について。
例えば外に出かけるとき、ニュースやアプリで天気予報を確認するように、僕たちは「自分が専門知識を持たないことについて知りたいとき」、それに詳しい専門家(の知識)を「信じ」ますよね。
もう少し画角を広げてみると、奥さんが旦那さんにゴミ出しを頼んだり、大学生が友達に授業の出席の代筆を頼むなど、「他人に何かの役割を任たい、頼りたいとき」に、それをしてくれる相手を「信じ」ます*2。

ここで「画角を広げる」と表現したのは、僕たちはその日の天気を知るために、気象学を勉強するのではなく、僕たちの代わりに気象学を勉強してくれた気象予報士さんが発表した天気予報を見ている、ということを伝えたかったからです。つまり僕たちは、とくダネ!の天気予報を見ているとき、天達さんに「僕たちより天気に詳しく、僕たちにこの後の天気を教えてくれる」という役割を任せている、ということなんですね*3。

これらのことから見えてくるのは、
「信じる」≒「自らの課題やタスクを、他の人や組織、ものに任せて解決すること」、
ということではないでしょうか。
これを「人任せ」と表現してしまうと、確かに無責任だ、責任転嫁だ、というように見えてしまうかもしれません。
でも、これまで挙げてきたシチュエーションを振り返ってみると、例えば仕事を任せてきた上司(=「信じる」主体)には、たくさんの仕事がさらにその上の上司から託されていたのかもしれません。奥さんも赤ちゃんの世話で手一杯だったのかもしれませんし、ましてやデートの日の天気を知るために気象学を一から勉強する人なんてごく一部でしょう。
アップルの例で言えば、「数あるデバイスの中でどれを選ぶか」という課題において、「アップル製品を買えばいい」という解決へのシンプルな道筋を示してくれます。
自分では解決に時間のかかる課題を代わりに解決してもらったり、解決するための時間や労力を捻出するために別の課題を他人に任せる。
先ほどの表現をより端的な形で表すのならば、
「信じる」=「手放す」
とできるのではないでしょうか。

(2へ続く)

*1 アイドルが高額なグッズを出したり、アップルが高額な上にお世辞にも「スマート」とは言えないデバイスを発表した際、それを買うかどうか迷うことを「"信仰心"が試される」なんて表現するのは面白いですよね。そんな頻繁に信仰心を揺らがしてくる宗教も嫌ですが笑

*2 書いてて思ったんですが、「頼む」って「信じる」と密接に繋がってるみたいですね。「信頼」って言葉もあるくらいですし。

*3 数年前まではアプリで天気予報を確認してたんですが、晴れの予報の日に傘を持たずに雨が降り、雨の予報の日に傘を持っていったのにもかかわらず曇りどまり、ということがしょっちゅうありました。最近めっきり天気予報を見なくなってしまったのはそのせいかもしれません。折り畳み傘は持つようになりましたが。

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