おじいちゃんが死んだ
5月のある日の午前中、88歳のおじいちゃんが死んでいるところをおばあちゃんが見つけた。
大阪から大分へ向かう道筋、私はあまり悲しい気持ちではなかった。親と新幹線に乗り込みながら自分を不謹慎だと思っていた。
おじいちゃんは晩年は耳が遠くてあまりコミュニケーションが取れなかった。死ぬ前の数日はごはんが食べられなくなり、入院を検討していた。入院する前日、死去の連絡が入った。入院したくなかったのだろう。
家についたとき、おじいちゃんは布団に寝ていた。顔にかかった布を取ったとき、母親と伯母さん(おじいちゃんの娘)が泣いた。でも私は「死んだ人間だ」とまたまた不謹慎にも思っていた。人間としての形はあるけどもう動かなくて、不思議だと思った。おじいちゃんは目を閉じて安らかだった。
コロナなどでずっと会えてなかったのだが、久しぶりに会ったおばあちゃんは元気だった。
「コロナのワクチンを今度打ちますからねと言ったのが最後の言葉だったわぁ」
「前日にちょうど遺影を注文しに行ったところで丁度よかったえ」
「死んでいるのを発見したときお布団とか乱れてなかったんよ、苦しくなかったんだと思うわ」
次の日、葬儀屋さんを家に呼んで、家族葬の段取りを決めた。おばあちゃんの希望は「できるだけコンパクトに、シンプルに」。
白い棺や大きな花が家に来て、綺麗に飾り付けられた。
死んだ2日後の葬儀はおじいちゃんが89歳になる誕生日でよく晴れた日だった。
川柳を老後の生きがいにしていたおじいちゃんに私達から自作の川柳を贈った。
「食べさせた 思う存分 腹いっぱい」
「めくるめく 夢もうつつも 五七五」
「誕生日 八十九歳 見送る今日」
「帰省して 小さな私を 高い高い」
「お気に入り 名付けてくれた 苑・萌果」
「八十路超え ステーキ完食 マンハッタン」
それから僧侶さんに来てもらってお経をあげてもらった。おばあちゃんは「うちは無神教です」と散々言っていたのになんでお経をあげてもらうのだろうと考えながら聞いていた。習慣というのもあるし、やらない決断をわざわざすることもなかったということなのだろう。お経は思っていたよりわかる言葉だった。
そのあと棺に花をみんなでいれた。お花にかこまれたおじいちゃんは本当に安らかだった。もういなくなっちゃうんだ。
最後、父親のピアノ演奏で「花は咲く」をみんなで合唱した。
花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう
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