#27 うん……、ちょっとね。
透き通る、高潔さ。
それがこのコマを見た時に感じた物だった。では見ていただきたい。
てんとう虫コミックス大長編ドラえもんVol.1のび太の恐竜 収録
冒険を終え、別れを涙と共に済ませた彼らの1コマ。
恐竜との出会い。
共に過ごす時間。
冒険、冒険、また冒険。
危機、危機一髪。
そして、別れ。
帰ってきた安堵感。
そのすべてが入り混じった感情。
息をつかせないばかりの大スペクタクル。
いつものテレビを飛び出して映画館で大活躍。
その記念すべき1作目の、クライマックスの1コマ。
作り手ならば誰しもが持てる物を全てを費やしたい、そんな風に力が入るところ。そんな場面でこのコマを描けるかどうかが、本当に作家性を問われるところなのかもしれない。
言葉では説明しきれない、一言では言い尽くせない程の大きな心の動きを、どうやって表現するのか。数多の動揺を帰結させるためにはどうするのか。
残りページ数も少ない。
それでも、伝えなくてはならない。
そもそもF先生が読者に伝えたい事は、何だったのか。
大昔の恐竜が現代にやってくることの不思議さだろうか。
のび太と恐竜との時空を超えた愛や友情だろうか。
大昔から帰れなくなるという不安さだろうか。
未来からやってくる理不尽な大人たちへの嫌悪だろうか。
ひみつ道具の複線的な使い方の面白さだろうか。
勧善懲悪の気持ちよさだろうか。
どれも重要な要素ではある。が、本質ではないような気がする。
中盤にドラえもんのこんなセリフがある。
「今度のできごとは、のび太くんがぼくにたよらず、まがりなりにも自分で考えて行動した点で大きな意味があった。」
本当に言いたかったのは、ここじゃないだろうか。
君たち読者も、そうしていかなくてはいけないよ。という事なのじゃないだろうか。
これは、「のび太の恐竜」というストーリーの核であると言える。
というか、むしろ「ドラえもん」という漫画の核でもある。
見事なブランディングメッセージだと思う。首尾一貫している。
大長編の中でこのセリフが物語の中盤にあるのは、もともと「のび太の恐竜」が中編として作られており、その中編のオチへのフリとして用意されていたからだ。
つまり元々あった中編を使って大長編を作ったので、本当のメッセージ(オチ)であるこの部分を最後に持ってくる訳にはいかなかったのではないだろうか。
本来、のび太の恐竜自体は、この中編の方で完結している。それを引き延ばして、大長編にしても結局は一番伝えたい事として「のび太の成長」を見せる必要がある。
様々な物を経験した子供たちは、自分のママにあれこれと説明したりしない。
だから「うん、ちょっとね」なのだ。
スネ夫もドラえもんも、それでいい。としか言いようの無い表情をしている。のび太の気持ちがわかるから、のび太と同じ気持ちだから、この表情になるのだろう。
クライマックスに向かって、グッとセリフの量が少なくなってくる。
当たり前の日常に戻ったからだ。この辺は、本当にうまい。
余白、余韻が大事なんだ。それによって、読者に彼らの感情が染み込んでくる。
ギャーギャーわめくばかりの、「ハリ吹き出し」でページを埋め尽くさないのだ。
そこに加えてこの後の、「夕やけがきれいだね」というのび太のセリフにもグッとくる。
その夕焼けがどれほどキレイだったのかは、やり遂げた者にしかわからない。だが、のび太たちは戻ってきた日常がキレイだと言える程の大冒険をして成長して帰ってきた。
僕らは彼らの成長するところを、大長編で、映画で見てきたのだ。
だから、これは大事な事なので、太字で言う。
感動させられるのではなく、感動してしまう。
泣かせられてしまうのではなく、泣いてしまう。
これが大長編ドラえもんの良さだ。
どら泣きとか、ハンカチを持ってみたいな演出は、大長編ドラえもんじゃない。それは、そんなのは映画ドラえもんじゃなくていい。
最近の映画では、ドラえもんじゃなくてもいい事が多すぎる。テーマや設定は良い。いくらでもSFしたらいい。でも、ドラえもんという作品がそれをやるのであれば、その本質を逃してはいけない。
50周年を迎える今年。のび太の新恐竜が控えている。今度はどうだろうか。
いずれにしても、映像はますますきれいになって、作画の技術も過去とは比べ物にならない。そういった意味では凄まじい進歩がそこにある。
どれもこれも話題のアーティストの曲が使われて、感動した、涙が止まらない。などと宣伝する。
というか、この映画泣けるよ!泣きに来てね!という宣伝の仕方だ。
いつから映画ドラえもんは、上っ面の良さだけで客を呼ばないといけないようなコンテンツになってしまったのだろうか。
だから、言いたい。本質はどこに言った?と。
映画を見終わった後の帰り道に、
真っ赤に燃える夕やけを見て、
夕やけがきれいだね
と思ってしまうのが、映画ドラえもんのあるべき姿だ。
その時、成長した僕らの横には、このコマのようにドラえもんが何も言わずに微笑んでくれているような気がする。
そんな風に思うのは、もはや僕が古い人間だからなんだろうか。
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