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回想 <春>

「傷つけたくない人がいるのです」

 その言葉がわたくしの失恋でした。穏やかでいつもの通り優しく、しかし芯のある声音でした。
 貴方はわたくしの目を見ておっしゃってくださいました。しかし、優しさとはときに残酷なものなのです。初めて見るような貴方のそのときの表情​をきっと、わたくしは忘れることができないでしょう。
 すぐに悟りました。貴方の心の隅にすら、わたくしの居場所はないのだと。
 その言葉も、声も、少しだけ薄桃に染まった頬も。だれかを大切に想う姿は、貴方をより魅力的に思わせるばかりで────。

────貴方の心の特等席はとうにだれかのものだったのです。きっと貴方はその御方にだけ、特別なリボンで結んだ言葉を贈るのでしょう。
 皮肉なことに窓から吹き込む風は貴方には追い風で、わたくしには向かい風でした。外は眩しい青天なのに3月の廊下は暗く、まだまだ冷たかったのをよく覚えております。

 返答としてはじゅうぶんすぎるほどでした。貴方もそれ以上はなにも言う素振りはなく、わたくしは思わず俯きました。変化していく鼻の奥の感覚から意識を逸らすこともできず、これより無様なところを見られるまいと立ち去るほかありませんでした。時間を取らせたことへの詫びの言葉を口にしたような気がしますが、振り返って歩き出す頃には眼球と鼻の奥はツンと痛く、角を曲がってすぐに熱い液体が目から落ちていくのでした。


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