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追憶の幻想

 それは、道なき道を進む旅だった。古の道を辿り、かの高僧の跡を尋ねる。目的地は遠く、道はあまりに険しい。これはそんな記憶の旅の、一つのスケッチとも言うべき奇譚だろう。

 その日は想定外の連続だった。まず、町への到着が増水した川のせいで遅れた。次に、泊まるつもりだった宿はどこも満杯で、一夜を明かす場所を探す羽目になった。最後に、町の住民の警戒心はあまりにも強かった。そういう訳で、私は野宿覚悟で次の町へと強行軍を進めることになった。
 次の町へはある草原を横切って向かうのが一番早い。西日の方へ私は歩き出した。

 異変は、町が見えなくなった辺りで始まった。何処からともなくお囃子が聞こえて来たのだ。賑やかさの中に、どこかうら寂しさを隠している。そんな音色だった。はて、草原にお囃子、なんとも奇妙な。五百年前ならいざ知らず、この草原に今住む者など居るはずがない。妖にでも出くわしたか。そうは思いながらも、お囃子に誘われるように、ふらふらと草原の中央へと足は動いていた。
 音の方角に進んで辿り着いた草原の中央。そこには高い城壁があった。門を探して城壁の側を歩く。白い石壁は一分の隙もなく高く聳え立ち、果てしなく続いているかのような錯覚に陥る程に長々と続いていた。やっとのことで見つけた門には当然、門番が居た。年は四十を過ぎたくらいだろうか。人好きのする温厚そうな髭面の男だ。首から白い笛を下げている。何故かお囃子の音色が蘇る。彼は妙に愛想良く私を出迎え、城壁の中へと誘った。あるはずのない街から手招きされる。まるで奇譚の世界に迷い込んだようだった。
 門番に続いて入った城壁の中には、高楼が軒を連ねていた。その屋根は皆、艶やかな黒い瓦で彩られ、煉瓦の赤茶色を引き立てている。既に沈んだ太陽に代わり、軒先に並べられた灯籠が飴色の光で街を照らし出している。その灯りの下で子供達は戯れ、老人達は昔話に興ずる。身なりの良さそうな男女が連れ立って往来を歩き、それに露天商が黄金色の飴を売り付けようとしている。光の加減で亜麻色に鈍く光る石畳の道の端では、山吹色の帽子を被った男の笛の音に合わせ、薔薇色の薄衣を身に纏い、眦を赤く染めた女が踊る。道ゆく人々の誰も彼もが思い思いの色で着飾っている。何処かで焚かれているだろう香の匂いに混じり、肉の焼ける匂いが辺りに漂う。絵に描いたように美しい光景だった。
 門番の話によると、今日は街の祖神の祭りだそうで、一日夜人々は踊り、歌い、語り明かす。なるほど確かにこの街で会う人は皆、この地方に特有の楽器を手にしていた。確か家畜の骨で作るんだったか、どこかもの寂しい音のするあの真っ白い横笛だ。この街へと私を誘ったあのお囃子もこの笛が作っていたのだろうか。
 違和感に気がついたのは、二番目の城壁を抜けた時のことだった。門番の、そして街の住人の服装がおかしい。皆、まるで五百年前に戻ったかのような服を着ていたのだ。遠回しにそれについて門番に尋ねてみたが、妙に要領を得ない答えが返ってきた。
 街の中心には、大きな広場があった。ぐるりを取り囲む家々は色とりどりの小旗で着飾っている。浅葱、紅色、橙、萌黄、さながら色彩のパレードを見ている気分だった。はためく小旗に釣られるように上へと視線を動かす。この地方特有の青い、突き抜けるような空が目に入った。——なぜ。つい先程までは、確かに真っ暗な、そう、夜だったはずだ。隣の男に慌てて尋ねる。首を傾げられた。どういうことだ、何が起きている?慌てた様子の私を他所に、男は中央を指差す。そこには祭壇があり、夥しい数の家畜が捧げられていた。緋色、群青、梔子色、染められた毛糸の原色が祭壇を飾り、石膏の白を引き立てている。なんとか気を取り直してあれが祖神を祀る祭壇か、と訊くとその通り、と答えが返ってくる。
 祖神の伝説を聞こうとしたところで、ざあっと風が吹く。そのあまりの強さに目を瞑る。

 もう一度目を開いた時には、そこにはただ、草原が広がり、月と星だけが風に揺れる緑を照らしていた。先程までの煩いほどの色彩は消え去り、緑と黒だけが広がっている。もう、あの笛の音色は何処からも聞こえてこない。白い壁も、何処にも無い。ただ、今にも泣き出しそうな、そんな風だけが草原を吹き渡っていた。

 後から聞いたことだが、かつてかの草原にあった街は、祖神の祭りの日に滅びたらしい。あれはあの土地の、幸福だった頃の記憶だったのだろうか。

柳原冴香

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