音楽の事例(1)

音楽が時間の芸術であるとするなら。


我々は、さも当たり前のように「作品」ということを言う。また時には、その「作品」の形態として「デジタル」と「アナログ」ということを言う。

さて、いま私の目の前にある一曲の音楽「作品」があり、これを私はiTunesで聴く。ところで、「音楽作品がある」とはどういうことだろうか?試しに、この曲が「デジタル」ではなく「アナログ」であったらどうか、と考えてみよう。そのとき、私はこの曲をいかにして享受するか?例えば絵であれば、似たような図柄がパソコンの内部で作成されようと、油彩絵の具で作成されようと、問題はあるまい。その絵は目の前に“ある”。しかし音楽の場合はどうか。

よくよく振り返ってみれば、私はさきほど「目の前に音楽作品がある」と言ったけれども、それは、「目の前の端末のあるボタンを押すことでいつでも何度でもその曲を出現させることができる」ということに過ぎない。というのも、私の目の前に“ある”のは曲そのものではなく、その曲へのアクセス方法のみなのだから。

すると、「アナログ」の音楽「作品」が目の前に“ある”、ということがそのような意味で成り立つのは、ほぼオルゴールを用いた場合のみである。「目の前の機械のネジを巻き直せばいつでも何度でもその曲を出現させることができる」。楽譜はここから一段下がったところにある。確かにそれはある一つの曲を再現する基盤をもたらすけれども、それを演奏interpret(=解釈)するのはその曲を離れた個別の誰かであり、そうして出現するのは、個別の音色である。

なぜこのようなことになるかと言えば、音楽は絵画と異なり、時間の芸術だからである。時間の芸術であるとはつまり、それが「出現する」と言っても、決して出現しきってしまうことがなく、「出現しつつある」という仕方でしか出現できないということである。絵画はある時点に出現しきる。対して音楽は、ある時点を取り出したところで、音楽ではない。時間の中で流されることで、つまりは新たに出現し続けながら、即ち絶えず消滅し続けながら、初めて音楽は現成する。

つきつめれば、音楽はなにかしらの確定した「作品」という定在を得ることがない。どれほど音楽ストリーミングサービスを整備し、曲にタイトルをつけ、ラックに並べ、再生ボタンを設えたところで、音楽そのものはどこにも繋ぎ止められない。音楽は決して腰を落ち着けることがない。


ではこのとき改めて、楽譜とは何かということを考えてみよう。さきほどは「楽譜は曲ではない」というようなことを述べたが、しかしまた我々は楽譜に刻まれているあるスタイル、形式、構成こそが曲であるというような認識を持っていることもまた確かである。つまり『ベートーヴェンの第九』という曲は、それが18世紀に楽聖団を交えて演奏interpretされようと、2020年にピアノのみで演奏interpretされようと、同じ『ベートーヴェンの第九』である、ということだ。

しかしそれにしても、この楽譜自体が『ベートーヴェンの第九』そのものをある地点・時点に定立させているわけではない。この楽譜という紙の束は、あくまで〈かつて生きていたあるスタイル〉、〈誰かの息づかい〉の痕跡なのである。その点では、この楽譜に自動楽団を組み合わせただけのオルゴールにしても、それがその楽譜の、そしてそれをある比較的単純な金属音の組み合わせへと解釈interpretした誰かの痕跡なのであり、それはやがて埃を被って磨耗していくのである。

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