孤独の事例(1)

孤独とは、時間をたった一人で支えなければならないことだ。大抵の場合は、常に誰かの声や何かの物音が聞こえ続けており、これが私を孤独になる前に繋ぎ止めている。そしてまた孤独を打ち破る最初の契機もまた、この〈物のざわめき〉である。(音が時間であることはやがて述べられることだろう)

ここから振り返って、観念論や独我論が孤独と呼ばれる所以も理解される。我々はこれらの力で、あらゆるものを私の支えの上に背負いこむ。独り暮らしの一室、独房というのは私の肥大した頭部であり、ここに他者の顔は現れない。時折、どこかから家事の音や野良猫の声、子供の叫び声が聞こえるだけである。これらの実に曖昧模糊としたものどもも、いともたやすく私による構成のちょっとしたノイズ、すなわち耳鳴りへと還元される。私は世界の一秒一秒の進行を私一人の手で担う。実に遅々とした時計。


孤独ではないとき、他者と共にあるときーー裏を返せば、目の前に肉体があれどその他者と「共に」あることがなければ、すなわち時間の担い手として共働していない限りは、孤独のままであるーー、時間は軽々と流れていく。およそ吹きすさぶとさえ言えるような軽やかさである。もはや世界は私一人の論理ではない。倍加された論理、その組み合わせによる複雑怪奇な網目が世界を構成する。その網目のすべてを見渡すことはできない。ちょうど、遠くの風景がこちらに届くまでに分厚い空気の層を通るなかで青味へ分解されるようなものである。私が言葉を放ち、また一歩世界への支配を拡大しようとするまさにその瞬間に、他者の言葉がそれを遮って、私の手を鎮め諌める。私はもう世界を支配しなくてよいのだと教えてくれているのだろうか。



誰かの昼が、誰かの夜であり、誰かの夜が、誰かの昼である。人と人との一日は、重なりつつも一致せず、故に人の生と人の生とはズレている。誰かが目を瞑れば、誰かが目を覚まし、誰かが目を覚ませば、誰かが目を瞑る。色調の論理が二枚から一枚になったとき、ともすれば世界から立体感が失われ、物の輪郭が平面になることもある。だから、反省reflexionが始まる。残された一枚は自らに折り返し、二乗しようとする。輪郭と反射reflexionを取り戻そうとする。しかし同じ一枚の色調が折り重なっても、決して元の色彩が帰ってくることはない。私は決して追い付かない。他者にも、私自身にも。私の昼に他者の夜が重なるとき、私は必ず他者の夜の深さに応えることを逸し、私の夜に他者の昼が重なるとき、私は必ず他者の昼の明朗さに顔を背ける。挨拶は必ず逸する。反省が始まるとき、私は常に遅れている。私の応答の試みは、常に遅刻している。

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