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1991、中国、キミと自転車で‥‥ ①

誰にでも振り返れば愛おしい「あの頃」がある。

有希にとっての「あの頃」は、1991年の中国で、好きな珈琲が飲みたくて、自転車を漕いで外国資本のホテルに出かけ、そこでぬるいインスタントコーヒーを口にしていたあの頃。
三十年の歳月が過ぎ、今は高層マンションの部屋でお気に入りの珈琲豆を挽いて、ゆったりとその香りをかぐ贅沢がある。

この三十年、中国は急激な発展を遂げた。その発展のスピードは、あの頃の誰も、たぶん誰一人想像し得なかっただろう。いま、街にはスタイリッシュな高層ビルが建ち並び、道路には高級外車が走り、人々の服装は人民服から有名ブランドの服に代わった。そして、スマホを手に電子マネー決済が当たり前のIT大国に成長した。

先進国日本で技術を学ぶために技術研修生が押し寄せていた時代はとっくに終わり、高い報酬を求めて日本から中国に人材が流出する時代が来ている。あの頃、先進国日本に留学し、デパートに溢れる家電に目を輝かせていた留学生は今はいない。今や一人っ子として裕福に育てられた留学生は、子どもの頃からアニメが好きで、せっかく日本に留学しても、狭い日本の寮に耐えられず、広くて快適な母国の自分の部屋が恋しいという。

中国は豊かになった。しかし、有希は「あの頃」の中国を懐かしむ。

 
あの頃の中国で、有希は生きていた。30歳になったばかりだった。前髪を短く切っているせいで、年齢よりは若く見えただろう。ゆるくウェーブをかけた長い黒髪の艶にはこだわりがあった。

北京、四月の初め、ミニスカートを履いた有希は広い歩道に立ち、通り過ぎる自転車の黒々とした大群を見送っていた。
ここは首都だと言わんばかりの片側四車線もある広い道路が、滑走路のように見えた。車の数は多くない。道路の両端を、五列にも六列にもなり、紺色やカーキ色の人民服を着た人々がガッシリした黒い自転車を漕いで流れていった。

これが、中国……。1991年、北京、まだ肌寒い四月にスカートを履いている女性は一人もいなかった。軍服色か紺の人民服を着た人がほとんどで、若者でさえ地味な綿のコートに着膨れて、女性は皆スラックス姿だった。化粧をしている人はいない。人々は黒い自転車を懸命に漕いでいた。群れはどこからか湧き上がってくるように、絶え間なく続いた。冷たいが清々しい風が吹いていた。

風に吹かれて、有希はミニスカートから出した足をどこかに隠したい気持ちのまま歩道に立っていた。有希の横を、人民服の帽子を目深にかぶった老人たちが一瞥して過ぎていった。彼らは毎朝鳥かごを振りながら公園に集まってくるのだ。布をかぶせた鳥かごを前後に振ると良い声で鳴くのだろうか。行き交う人たちは、紺色の被いをかぶせた竹でできた鳥かごをぶらぶらと強く振りながら歩いていた。

スカートの丈は膝上だったが、色は青で、有希なりに「郷に入れば郷に従え」と初めての外国生活を意識して購入したつもりだった。しかし、バブル時代の日本から来た有希のスーツは同じ青でも目立つ鮮やかな青色、そして金色のボタン、肩パッド入りだった。化粧は控えめなタイプだが、長いウェーブのかかった髪にピンクの口紅はそれだけで目立った。

道路を走る黒い自転車の群れと、歩道を行き交う人民服の老人たち、同じ場所にいながら、有希だけが異次元にいた。空は青く、薄い雲が風の流れを示していた。まだ、四月の初めで、白い柳絮は飛んでいなかった。

 
青年海外協力隊隊員というのが有希の中国での身分だった。その派遣前合宿の期間、2月に有希は29歳の誕生日を迎えた。二十代最後の歳を迎えて、複雑な気持ちだった。急ぎ過ぎた二十代を振り返っていた。そういえば、19の誕生日に、有希はやはり焦っていたのを思い出した。何者かにならなければと焦っていたが、何者にもなれないまま、今も何か焦っている。何処へ行こうとしているのか、自分にもわからない。自分の居場所はどこなのかわからないまま、できることを探して、有希は旅立つことを決めた。そして北京に立っていた。

「あの頃」、日本は浮かれていた。若者はお洒落に気を使い、ディスコでフィーバー、誰も彼もが株式投資、経費接待、不倫も社会現象、『Japan as No.1』というアメリカで出版された本が翻訳され、みんなその気になっていた。浮かれてキラキラした時代だった。青年海外協力隊の壮行式でJICA(国際協力機構)の理事長が「日本の債務残高がゼロになった」と誇らしげにスピーチをしていた。確かにそれは誇らしいことのように感じた。でも、それは戦後、汗を流して働いた父親世代の功績である。有希たちは戦争はもちろん、戦後の苦労さへ知らない。大学生になった頃には、学生運動もとっくに終わっていた。

バブル景気の端っこで、小さな会社で事務員をしていた有希は、満員電車の通勤時に、電車のつり広告に目を止めた。『君にもできることがある』。コピーの下にアフリカの子どもたちの屈託のない笑顔があった。テレビでも飢餓に苦しむ痩せ細った子どもたちの顔を見ることが多かった。「愛は地球を救う」と、テレビの募金番組が流行っていた。ハエがたかっている嬰児の顔、あばら骨が見える躰、訴えるような大きな瞳を映し出すことが増えていた。「私にもできることがあるんだ」浮かれた日々に追いついていけなかった有希は、何者でもないまま此処にいるよりできることをしよう、と決めた。

数ある募集職種の中から、自分にできることを探したが、誰にでもできるような「日本語教師」しか思いあたらなかった。習い始めた英会話のアメリカ人教師が可愛くて魅力的な女性だったこともあり、外国語を学びたいと思っている人に日本語を教える仕事は悪くないと思った。それだけの理由だった。

あの頃、青年海外協力隊員は二年間発展途上国に派遣され、専門職を現地の人々に指導した。当時、応募できるのは20歳から40歳までの青年だった。筆記試験と面接が二回あった。「日本語教師」という誰にでもできるような職種は、誰でも応募するから競争率が高いと聞いていたが、面接ではそれなりの手ごたえを感じた。教えた経験はなくても、30歳という年齢とそれまでの社会経験が強みになったのだろう。  

通知が来た。「派遣国 中華人民共和国」と書いてあった。
え?中国……?申請した派遣希望国には、タイまたはインドネシアと書いて出した。日本から遠すぎると親が心配するだろうからと思って東南アジアを選んだのだ。派遣希望国どおりにはならないことは、応募の時から聞いていたが、隣国中国になろうとはまったく予想外だった。

派遣先を受け入れるかどうか、返事をする必要がある。行くのか行かないのか、判断をする段になって、有希は、中国に対する知識がゼロに等しいことに唖然とした。想像が……つかないのだ、まったく。

遣隋使、遣唐使、殷周秦漢、受験の時に覚えた時代名が口から出た。それから、日本に帰国した中国残留孤児の人たち。高校生の頃、連日、テレビで肉親を捜す人たちが一人一人大きく映し出されていたのを覚えている。人民服を着たその人たちの顔は田舎っぽくて貧しさが滲み出ていた。自分を大陸に残し去った親を必死に探す人たち。敵国の孤児だと知りながら大人になるまで育ててくれた中国人はそんなに情が深いのか、それとも労働力として使用されていたのか、日本人の名前を持つのに日本語が話せない人たちを有希はぼんやり見ていた。そして、二年前の天安門事件。ああ、上野動物園のパンダ。それから毛沢東だっけ、偉い人が立て続けに亡くなって、四人組という人たちが捕まったニュースをすいぶん前に見たことがある。有希の中国に関する知識はすぐに底をつきた。そういえば、中国は今も発展途上国なのか。

青年海外協力隊のイメージは、アフリカの村に井戸を掘りに行くイメージ。中国は今も本当にそんなに貧しいの?二年前、天安門事件のニュースに映っていた北京の道路はアスファルトだったし、とても広い立派な道路だった。
 
実際、北京の道路は広かった。広過ぎて、向こう側に渡るのをあきらめたくなるぐらいだ。テレビで見たことのある景色を今、有希は北京の風に吹かれながら眺めている。黒い自転車の群れ、自転車を漕ぐ人、人、人。黙々と漕ぐ人、笑いあっている人、大声で喋っている人、自転車の群れの速さはのんびりはしていない。五列にも六列にも連なる自転車の列の向こうに、立派な外国車が何台か走っていたが、車線はガラガラだった。時折、人々をぎっしり詰め込んだバスが走り過ぎた。

この国で暮らすんだ。あのバスに乗るんだ。その光景の中で、明らかに異物であるミニスカート姿の有希は、北京のまだ冷たい四月の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。                       続


以前、違うタイトルでnoteに書いた小説を書き直しています。



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