Tamas Wells『A Mark On The Pane』ライナーノーツ


アーティスト:Tamas Wells
タイトル:A Mark on the Pane
レーベル:Lirico
品番:LIIP-1502
発売日:2007年7月20日

作品詳細:http://www.inpartmaint.com/#/post-387



沈んでいく夕日を見ていると、ほんとうに哀しくて淋しくてそして美しいと思うわ。滅びゆくものの哀しさっていうのかしら。そして、それを見つめ続けていると、このあたし、この自分のまなざしそのものが、いつの間にかとてもやさしく哀しく柔らかくなっていくような気がする。そしてそのまなざしで眺めると、この世界はみんなすごく空しくてはかなくて、でも美しい許せるもののように見えてくる・・・・。
(庄司薫 『白鳥の歌なんか聞えない』)

僕は、タマス・ウェルズのセカンドアルバム『ア・プリー・アン・ヴァンドレディ』のライナーノーツの冒頭で、楽曲を通して視た景色について記した。それは死を前にした人間の光景。刻一刻と近づく最期の瞬間を病室で待つ男の。イメージの連想から「スワン・ソング」という言葉が去来し、その美しさに想いを馳せた。あれから8ヶ月。僕は再びタマス・ウェルズのライナーを記す機会を与えられた。ただし前回と違う点は、ライナーを書いているこの場所は、病院の集中治療室であるということ。僕の眼前には、自らが作り上げた幻想でもなんでもなく、最期を待つ肉体が横たわっている。人工呼吸器の作動によって維持されている生命。身体から伸びる幾つものチューブ。定期的に看護師が行う痰の吸引が発する耳障りなノイズと、「頑張って!」という彼女たちによるピンクノイズのレゾナンス。耳に入るのはそんな音ばかりだ。白鳥の、歌なんか、聴こえない。

僕は、この現実を目の当たりにしながら、タマス・ウェルズがこの世に生み出した最初のアルバムに言葉を寄せていく。PCのディスプレイに向かうのではなく、真っ白なノートに綴っていく。COPD(慢性閉塞性肺疾患)の末期症状で意識不明に陥った祖父が臥した無機質な部屋で。iPodに携帯用スピーカーを繋ぎ、その空間に音を流そう。白鳥の歌を、そこに流そう。タマスの歌声を、そっと響かせよう。ガン患者の疼痛緩和のためにモーツァルトを流すように、少しでも苦痛が取り除かれることを願いながら。僕は決して目を背けることなく、全ての時間を封じ込めて言葉へと昇華させていく。こんなライナーノーツは公私混同甚だしいが、それもまた前回のライナーによって生じた因果律としてお付き合いいただけたら。

皆さまが手にされているこのアルバムは、2004年にオーストラリアのレーベル「Popboomerang」よりリリースされたタマス・ウェルズの記念すべきファーストアルバムに、幻の音源となっている初期のシングルとEPの2枚(計9曲)をボーナストラックとして追加したジャパニーズ・エディションである。そして、同時に来日記念盤でもある。まずは本論に入る前に、今作が生まれるに至った経緯を記しておきたい。昨年のセカンドアルバムの日本盤発売以降も、彼らのファーストアルバムは日本では封印されたままだった。iTunes Storeでのみダウンロード購入が可能だったが、輸入盤の流通はレーベルの在庫全てを仕入れた今年2月まで待たなくてはならなかった。しかし、そのストックも200枚しかなく、大手レコード店を中心に即座に売り切れてしまうという事態に(都心の大型店でも数十枚程度の入荷だったので、むべなるかな)。当然のことながら、現場で売る側の立場にあるバイヤーの方々から日本盤化による再発のリクエストが集まっていく。それと時を同じくして、タマス本人と直接交渉していた来日公演が正式に決定したこともあり、今後の展開も視野に入れ新たにレーベルを設立し、そこからリリースしようという結論に達したのである。そのためには既に輸入盤を購入された方にとってもアピールとなる要素が必要だということで、彼らがアルバム以前にリリースしていた初期音源を追加収録する特別盤として世に送り出されることになった。シングルとEP、ともに自主制作という形で発表されたため本国オーストラリアでも所有している人は少ない。それでは、時系列に沿いながら彼らの軌跡を辿っていこう。バイオグラフィに関しては、セカンドのライナーに記したものと重複してしまうけれど、その点ご了承いただきたい。その前に前回のライナーに関してお詫びと訂正を。そこで僕は彼のことを「ミャンマー出身」と記しているのですが、本人へのインタビュー時にそれが誤認情報であり、彼はオーストラリアで生まれ育ち、現在の仕事でミャンマーに居住しているということが判明しました。誤解を招いてしまったことをここにお詫び申し上げます。

今年33歳を迎えるタマス・ウェルズは、大学進学を機に「(オーストラリアにおける)芸術の首都」と云われるメルボルンへ移住する。ピアノの素養がある彼だったが、その地で生まれて初めてギターを手にして演奏することの楽しさと、気の置けない仲間たちと一緒にバンド活動を行う歓びを経験していく。そんな彼がオリジナルの楽曲制作を始めたのはそれほど昔のことではなく、20代を過ぎてからのこと。やがて自らの名を冠したバンドを結成した彼らのデビューは、2000年にまで遡る。その当時、第三世界の債務帳消しを求めた世界的な運動”ジュビリー2000”というものがあった。坂本龍一やレディオヘッドのトム・ヨーク、U2のボノなど名だたるミュージシャンが支持を表明していたことを記憶している方も多いかもしれない。まだ無名の存在だったタマス・ウェルズもこの活動に触発され、EP「Hello Jealousy」を発表。これが彼らの、記念すべき最初の公式音源となる。この時の編成は以下のようにドラムレスのトリオだった。

タマス・ウェルズ (Vocal, Guitar)
オーウェン・グレイ (Bass, Vocal)
ベン・キャッスル (Violin)

その後、ドラムにネーサン・コリンズを迎えてメルボルンのライブハウスを中心に演奏活動を積み重ねていく。そして、2002年春に3曲入りデビューシングル「Cigarettes, A Tie And A Free Magazine」を自主制作でリリース。その直後にヴァイオリンのベンが脱退し、入れ替わるようにキーボードのアンソニー・フランシスが加入、現在に至るメンバーが顔を揃えた。その年の秋にはEP「Stitch In Time」を発表。矢継ぎ早に世に送り出された2枚の音盤は、ともに地元誌のシングル・オブ・ザ・ウィークを獲得し、彼らの名前は注目すべき存在としてメルボルンだけでなくオーストラリア全土へ着実に浸透していくことになる。豪州各ラジオ局によるパワープレイの後押しと、地道なツアーもそれに拍車をかけた。結果、その才能に惚れ込んだ地元のパワーポップ/インディロック・レーベル「Popboomerang」が彼らと契約を交わし、デビューアルバムへの道が拓けることとなった。

「Cigarettes, A Tie And A Free Magazine」は、タイトルトラックのアコースティック・ギターの爪弾きに乗せて歌われる繊細なメロディラインに胸を鷲づかみにされる。これぞ憂愁と言うほかない深いメランコリア。一つ一つの言葉を噛み締めるようにタマスはしっとりと歌い上げる。今作が最後となるベンによるヴァイオリンのたおやかな旋律が楽曲を彩る。ローズ・ピアノの柔らかな音色とともに。2曲目の”Where The Koran Seems To Rhyme”は、打って変わって上向きの印象。爽やかさも湛えたカントリーテイストも感じられるナンバーだ。マンドリンやヴァイオリンがカントリーのマナーにのっとって使用されているせいもあって、タマス史上最も陽気で軽やかな楽曲とも言える。アコースティック・ギターの弾き語りがメインの“The Necessary Ones”におけるタマスの歌声は、決して「天上の」と形容されるそれではない。むしろ地べたを這いつくばっているかのようであり、飛び立つような美しさが封じ込められている。そこで歌われるのは日常に根ざした恋歌。全体的に、彼が影響を受けたと語るアーティスト(サイモン&ガーファンクル、ニック・ドレイク、アイアン&ワイン)の影をそこかしこに見つけることができる3曲だ。デビュー2作目のタマス揺籃期。彼はまだ自らの天使の歌声を、その殺傷力を自覚的に使いこなすには至っておらず、試行錯誤の途上であることを痛感させる。だが、このシングルによって地元誌のシングル・オブ・ザ・ウィークや地元ラジオ局のパワープレイを獲得し、その名前をオーストラリア全土へと知らしめる端緒となったのであった。

EP「Stitch In Time」は全曲を通してスローなテンポと静謐さで覆われ、非常に内省的な作品となっている。マーク・ラングという、ルーツロックを奏でるバンド、スキッピング・ガール・ヴィネガーの中心人物と共に、楽器をメルボルンの沿岸部にあるビーチハウスへと運び込みレコーディングを敢行した。完成した6曲は、タマスが爪弾くアコースティック・ギターを基調としているが、加入したばかりのアンソニー・フランシスによるフェンダー・ローズのあえかな音色が郷愁を際立たせている(ドラムセットをスネアしか持っていかなかったせいか、いつにもましてリズムの存在感は薄い)。抑制され、淡淡しくもあるタマスの歌声によって儚さは強調され、フラジャイルなおぼつかなさを感じてしまう。個人的な印象になるけれど、アルバムで再録される“Reduced To Clear”を除いては、全てが2分強の小曲でまとめられており、そのあっけなさが今作では心地よい。あるいは、人によっては物足りなさを感じてしまうのかもしれない。だが、すぐに消えてしまうということが、逆に愛しさを増していく。その短さはまるで、昼の光と夜(月)の光の狭間に溶け込んでいく黄昏の色彩で彩られているかのようだ。確かにそこから聴こえていた旋律が、ふと意識を逸らした瞬間、唐突に消失してしまう。それは、二つの光に照射され、見えていたものが徐々に見えなくなるあの夕間暮の感覚を想起させる。

果たしてタマスの楽曲の効果はあったのか、祖父の身体は快方へと向かっている。なんとか意識も取り戻し、人工呼吸器も外されることになった。だが、この場所へ心配停止状態で運び込まれた際のアクシデントからか、死の淵から生還した彼はもはや別の人間となってしまっていた。身内の誰の判別も付かないくらいの認知症の発露へ。記憶の中身は何十年も前のことばかり。加えて、喫緊に迫った死に対する恐怖からか、己の欲望を隠そうともせず振り乱す。食事の催促はもとより、疼痛に対する呪詛など。入院以前、もういつ死んでも悔いはないと語っていたことが嘘のようだ。それでも24時間体制で身内が側にいないといけない。周囲の人間の精神が疲弊し、蝕まれ、澱は沈殿し、淀んでいく。「人工呼吸器の作動の確認同意があったあの時に、首肯しなければ・・・」「いつまでこの状況が続くのだろう」。誰彼ともなく次から次へと昏い感情が表出する。苛立ちの怒声が飛び交う。だが、それは責められるものではないだろう。僕だって彼の生命を維持する装置の電源を切りたいと思ったのだから。いつしかタマスの音楽は、死を前にした人間の痛みを和らげる麻酔的な役割 から、僕自身にとって眼前の現実の諸問題を忘れさせてくれる逃避のための処方箋となっていた。彼の奏でる音によって形成された繭の中の居心地は、それはもう格別のものだ。あの場所へ赴かず、ずっとこの中にいたい。強く願った。しかし、入院から10日が経過したとき、状況が一変する。ICUから一般病棟へと移った彼であったが、再び個室へと送還されたのだ。MRSAの院内感染の発生。つまるところ、隔離だ。

EPのリリースから数ヶ月経過した2003年初頭。アート・オブ・ファイティング等を手がけたプロデューサーのティム・ウィッテンが、評判になっていた「Stitch In Time」を気に入り、バンドに対して自分のスタジオで音源を制作することを持ちかける。その年の夏、彼らは新曲を録音すべくシドニーへ乗り込む。そして一週間に渡るセッションの結果生まれた8曲に、国内ツアーの合間を縫ってレコーディングを重ね、待望のファーストアルバム『ア・マーク・オン・ザ・ペイン』が完成した。

タマス自身のソングライティングとバンドのサウンドプロダクションは、このアルバムをもって開花したと言えよう。”穏静と静謐のトーンで統一された中に気高き祈りにも似た切なる願いを感じ取れる。豊穣なメロディ、なにより優しく響くタマスの声。自分の中の何かを芸術を司る神に捧げた結果、と僕なんかは安直に連想してしまうくらい完成された世界観が形成されている。ブレのない軸が既に彼の中で指針として存在することが伝わってくる。”と、僕はセカンドのライナーで言及している。それまでにリリースされた2枚とこのアルバムでは、明らかに音の手触りが異なっているためだ。バンド形態であるにも関わらず、どこかSSW然としていたEPの楽曲で目立っていた角がそぎ落とされ丸みを帯び、素朴さが残っていたプロダクションはバンドアンサンブルを伴い流麗さへと向かっている。天然素材だったヘンプから極上のヴェルベットへ、そんな感覚。タマスが語っているように、これはプロデュースを務めたティム・ウィッテンの辣腕によるものだ。ティム・ウィッテンはその方針として、まずはバンドとしての完成度を求めたのではないだろうか。タマス・ウェルズ(バンドではなく個人)が持つ天賦のメロディセンスと歌声を、強調するのではなくあえて抑するという決断をこのファーストにおいて下したように僕には思えてならない。

そのためにティム・ウィッテンはトーンの統一感を重視することを優先したのだろう。結果として、ミディアムテンポの落ち着いた楽曲がずらりと並ぶアルバムとなった(全10曲中インストが3曲)。元来、ファーストアルバムとは自分たちが持っているもの全てを注ぎ込む傾向が強いため、比較的バラエティに富んだものが多い中でこれは当然ながら瑕疵ともなっている。最終曲を除き、挟まれるインストはインタールードとしても機能していないし、アレンジとトーンが似た楽曲が多いため残念ながら中弛み感は否めない。だが、アコースティック・ギターとオルガンやローズ・ピアノといった幾つかの鍵盤類やグロッケンシュピールを中心とし、予想以上の「バンドサウンド」に仕上がっているのも確かだ。本作において最もメロディアスで疾走感があり、シングルカットもされたM2”Broken By The Rise”とM6”Even In The Crowds”が、タマス・ウェルズがバンドであることを再確認させながらアルバムを牽引している。

セカンドにおいてアンサンブルとしての要素が減退しているのは、タマスがミャンマーで書いてきた曲を重視するソングオリエンテッド路線に変更したからではないかと僕は推察する。ミャンマーでの半年間の生活が、録り貯められた2時間におよぶデモテープへと結実。その繊細なメロディを生かすために、ある種の生っぽさ、「レア」さが求められた結果そうなったのだろう。ただ、ゆったりした弾き語りで幕を開け、2曲目にアルバムを代表するシングル曲を置き、5曲目にインストを配置するという構成はセカンドと全く同じだったりするのだけれど。

そして、天上の、という形容詞が彼らの奏でる音楽(およびタマスの歌声)に枕詞のように付いて回るようになったのも今作が契機と言っても過言ではない。「”シガー・ロス”ミーツ”ニック・ドレイク”」という、キャッチーではあるけれど俄かに信じがたいフレーズが登場したのも、地元の音楽誌がこのアルバムを評してのこと。加えて、もう一つ完成を見たものがある。それは、楽曲に内包される悲しみである。タマスから生み出される表現において、その根底に悲しみがあるのは今も昔も何一つ変わらない。アルバム以前は悲愴さがそれを憂うメランコリアと直結し、歌われる旋律がその領域を彷徨していたものが、このアルバム以降はコンピ提供曲も含めてそこから抜け出している印象を受ける。喩えるなら、初期EPでは聴取者と悲しみを共有していたものが、アルバムでは彼らが抱える悲しみを癒すベクトルへと位相を移している。繭のように聴く者を包み込み外部から遮断させてくれる音楽へ。その繭を形成する糸は、優しさとそれを支える力強さが多分に含まれているのだ。

このアルバムの完成後に、タマスは妻と二人でミャンマーへと移住する。HIV/エイズ教育に関する地域保健活動を行うNGO「World Concern」で働くために派遣されることになったのだ。妻は医師として、タマスはテクニカルアドバイザー兼ヘルスワーカーとして。最初に半年間の逗留。その後、再び昨年の春から今もなお長期滞在を続けている。具体的な彼の仕事は推察の域を出ないが、妻のブロンウィンが所属するNGOに寄せた手記の中で、ミャンマーの現状を記している。そこには、彼らが暮らす街の貧富の格差の現実が浮き彫りにされていた。一般的なミャンマーの人々が一日に使える金額は自分たちがオーストラリアにいた頃の電車の最低運賃に等しく、それが故に現地の人々との距離感に懊悩することを吐露している。世界の縮図が一つのストリートの中にある、と。富める者の住居はどこまでも大きく、貧しい者は住む場所すらない。その極端な光景を見て深い悲しみを抱える自分たちは、「余所者」の存在であるからこそ、その圧倒的な現実に時に打ちひしがられるのだとも。その半面で、常に軍事的緊張を強いられる国であるにも関わらず、自分たちの置かれる状況が過酷であったとしてもなお、そこに暮らす人々の穏やかさと優しさや人柄に二人はたくさんの勇気をもらっていると綴られている。生活の中で軍による支配の暴力的な圧政を肌で感じ、日々の仕事でHIVウイルスに蝕まれ苦しむ人たちと接する。そんな毎日を続けていれば、彼の表現から悲しみが増幅されていくのは当然のことだ。タマスは自分の音楽が、決して世界を変えないことを理解している。でも、自分たちの静かで穏やかな表現は、一人ひとりが世界に対して抱く感情を少しは良いものにできると信じているに違いない。

そして、ミャンマーにおける喧騒とは無縁の日々が、彼の才能の新たな金脈を掘り起こすことになる。それらはセカンドアルバム『ア・プリー・アン・ヴァンドレディ』において結晶化しているので、詳しくはそちらを。タマスは、インディペンデントであれ音楽産業の一員として属している者に必ずついてまわる”ルーティン”に煩わされずに済んだのだ。レコーディング、パブリシティ、国内ツアー、批評家からの採点に対する一喜一憂、そういったお決まりのレールからの逸脱。その代わりに彼が自らに課した使命とは、目の前で起こることだけに集中し、それを音楽として昇華していく純粋な作業だった。セカンドアルバムを引っさげてのオーストラリアツアーを一切敢行しなかったこと、それに伴う長期に渡るバンド活動の休止は、彼らにとって多大なる犠牲を払うものとなっただろう。アルバムのクオリティを鑑みても、地道にツアーを行えば以前を遥かに上回るプロップスを獲得できたはずなのに。だが、彼は後悔などしていないと語っている。今後の彼の人生において、バンドで成功を収めることよりも重要な体験となっていることを理解しているからだ。タマス本人が「自分の作る音楽はその場で過ごした環境に大きく影響される」と語っていることから、現在ミャンマーに再び長期滞在している彼から生まれるメロディがどのような煌めきを見せるのか瞠目して待ちたい。セカンドと同じくミャンマーの自宅で録音されたデモ音源が、彼のmyspace(http://www.myspace.com/tamaswells)にて順次アップされており、これからも増えていくだろう(その都度前の音源は削除されているが)。それらはあなた自身の耳で確かめてほしい。そして、8月に予定されている来日公演に足を運んでみてほしい。ブッキングの都合でタマス一人によるソロライブになってしまったけれど、彼の天上の歌声に包まれる貴重な機会でもあるので。

最後に、蛇足ながら彼のポートレイトをまだ見たことがない人は上記のmyspaceかLiricoのサイトで是非見て欲しい。彼の相貌、中でも吸い込まれるような瞳の紺碧とそこに宿る悲しみの色を。消えない希望と意志の光を。3年近く前、彼の音楽を何度も繰り返し聴取し、「どんな人物がこの美しい音楽を奏でているのだ?」と気になり調べた時の僕の合点や納得は皆さんもおわかりになることだろう。受傷性と繊細が見え隠れし、力強さと弱さが同居する。透徹と諦観が交差し、悲しみと覚悟が表出する。僕は、彼の音楽を聴きながらその瞳の蒼翠を見つめていると、いつも北原白秋の『青いとんぼ』という詩を連想してしまう。  

青いとんぼの眼をみれば
緑の、銀の、エメロウド。
青いとんぼの薄き翅、 
燈心草の穂に光る。 

青いとんぼの飛びゆくは
魔法つかひの手練かな。
青いとんぼを捕ふれば
女役者の肌ざわり 

青いとんぼの綺麗さは
手に触るすら恐ろしく、
青いとんぼの落つきは
眼にねたきまで憎々し。 

青いとんぼをきりきりと
夏の雪駄でつぶす。

綺麗な青を有したこの生き物は、蜻蛉(かげろう)のことだと知ったのはいつだったか。儚さの象徴でもある、たった一瞬の燃焼でしかないその生命を、自らの力で断つことの残酷と傲慢と陶酔。永遠のものにしたいという感情と汚濁に塗れさせたいという、人間誰しもが持つ「美しさ」に対する二律背反の想い。そんな究極のフラジャイルの感覚を、タマス・ウェルズの楽曲からいつも感じ取ってしまう。彼の音楽にあらゆる感情を揺り動かされ、これが流れる時間が少しでも長く続けばいいのにと想い、常に始まりがやってくることを切に願う僕と、彼のこの純潔な表現がこの先どれだけ保持されていくのかと終わりの瞬間ばかりを見据えてしまう僕は、同一のものだ。始まりは終わりの始まり。終わりは始まりの終わり。彼の音楽からそんなシンプルな結論を見出してしまう。タマスの特徴でもある「潜在意識から選出した言葉による作詞法」により、僕たちは明快なストーリーをリリックから感じ取ることはできない。ただ断片だけが身体に入り込み集積していく。悲しみの断片、美しさの欠片、寂寥の断章、郷愁のフラグメント。それらが、忘却の彼方に追いやっていた記憶をよみがえらせ、決して忘れることができない追憶を刺激する。だからこそ、余計のこと様々な思索を試みてしまうのだろう。僕にとっては、それは「生」と「死」に関することだった。皆さんはどうですか?

MRSAおよび院内感染という、これまでは新聞でしか目にしたことがなかった事態が現実のものとなった。病室に入るために完全な除菌やマスクの着用を義務づけられ、それを痛感する。この細菌が健常者には作用しないということを頭で理解していても、儀式的なプロセスとして悲愴感は増すばかりだ。死の転帰をとる可能性を医師が仄めかす。緊張が走る。老いがもたらす死については、当然さまざまな表現から接してきたし、いよいよもって身内がこの世を去るというのも初めてのことではない。頭では理解している。こんなものは順番待ちしている長い列のようなものだ。自分だっていつなんどきこの状況に陥るかわかったもんじゃないし、長蛇の列に割り込んでお先にとばかり越えていくことだってあるかもしれない。自分が意識するのは、終わりの瞬間そのものではなく終わっていく時間なのだろう。防菌された僕たちと菌に侵された祖父の間にある境界。目に見えて出現した、「ここ」(此岸)と「むこう」(彼岸)を隔てるその境目を注視する。この向こう側が、「死」なのだ。僕はまだそれを跨ぐわけにはいかない。引っ張られてはいけない。僕はこちら側で踏ん張らなくてはいけないのだ。「生かす/六月の百合の花が私を生かす/その日の夕焼が私を生かす/生かす/忘れられぬ記憶が私を生かす」(谷川俊太郎『生きる』)という感覚を大切にしなくては。おそらく、このアルバムが発売される頃、彼は世界に別れを告げているだろう。これはその忘れられぬ記憶を巡るドキュメントでもある。そして、一つの戦いの記録だ。

2007年6月25日 大崎暢平 (Lirico)

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