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Tamas Wells 『To Drink up the Sea』ライナーノーツ



アーティスト:Tamas Wells
タイトル:To Drink up the Sea
レーベル:Lirico
品番:LIIP-1555
発売日:2023年12月8日
作品詳細:https://www.inpartmaint.com/site/38617/

「天使の歌声」が戻ってきた。タマス・ウェルズの7作目となるニュー・アルバム『To Drink up the Sea』は、ほぼ2年ごとにアルバムをリリースしてきた彼にとって、前作から6年という最長のスパンで届けられた。その空白期間の間に何があったのか。最長の製作期間が費やされた本作について詳しく述べていきたい。

ジーロング出身、現在はメルボルン在住のオーストラリア人シンガー・ソングライターの歴史は過去作の解説を参照いただきたい(Liricoレーベルのnoteで公開されている)。

2017年11月にリリースされた、前作にあたる6thアルバム『The Plantation』に合わせた中国ツアーと、翌年の4月に上海で行われたDaydream Festivalへの出演を最後に沈黙の期間に入る。2007年の初来日ツアー以降、アルバム・リリースのたびに行われてきた来日ツアーも結局行われなかった。

彼のPCには「2020 album」というフォルダがあるそうだが、世界中の多くのアーティストと同様に、2020年に起きた新型コロナウイルスのパンデミックがすべてを変えてしまった。メルボルンのロックダウンは世界でも最も長いもので、2020年から2021年の終盤まで6度に渡り、合計262日間も行われた。当然、その期間は音楽活動をストップせざるをえなかったが、代わりに肖像画に没頭していたという。あまり知られてはいないが、彼は実は画家でもあり、アルバムのアートワークに使用されている絵画はクレジットはされていないが、ほとんどが彼自身の作品だ。なお、タマス・ウェルズを世に知らしめた作品『A Plea en Vendredi』のアートワークは、タマスの絵の師でもある風景画家の父の作品が使用されている。

2006年から6年間をミャンマーで過ごし、現地のいくつかのNGOでHIV/エイズ教育のヘルスワーカーやフィールドワーカーの仕事に従事した彼が今もミャンマーに関わり続けていることはそれほど知られてはいない。現在は名門メルボルン大学で東南アジアの政治や民主主義について研究を行っており、コロナ禍のロックダウン期間にはミャンマーの政治と民主主義をテーマにした初の著書『Narrating Democracy in Myanmar』の出版も行う。ロックダウン時に描きはじめた 'What we see through the window' という肖像画シリーズでは、パンデミックと軍事政権のクーデターにおいて、激動の時期を過ごすミャンマーの人々を描いている。そのシリーズは当時彼のウェブサイトで販売され、売上は100%、Myanmar Students' Association Australiaという団体に寄付された。このように、タマス・ウェルズはメルボルンに戻ってからも第2の故郷ミャンマーに尽力を尽くし続けている。

また、2021年には2ndアルバム『A Plea en Vendredi』がリリース15周年を記念して初めてヴァイナルでリリース。この紛れもない名作のレコード化は多くのファンが望んできたことであり、まさに待望の再発だった。

最終的にアルバム製作が軌道に乗ったのは2022年に入ってからで、結局レコーディングには12ヶ月もの時間が費やされた。本作は同郷のオーストラリア人シンガー・ソングライター、マルチ・インストゥルメンタリストであるマシーン・トランスレーションズことグレッグ・J・ウォーカーがプロデュースを手掛けている。1990年代の終わりから活動を開始し、シドニーの老舗レーベルSpunk Recordsから多数の作品をリリースするマシーン・トランスレーションズ。宅録を極めたエクスペリメンタル・ポップ・サウンドに定評があるアーティストだが、かねてから彼の大ファンだったというタマスのラヴコールが実って今回のコラボレーションが実現した。

『To Drink up the Sea』というアルバムのタイトルは、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの著作からの一節で、レコーディングの大半が終わった後に名付けられた。

「ある日、フリードリヒ・ニーチェの著作の一部を読んでいて、『海を飲み干す』という一節に出会ったんだ。僕はドイツ哲学の専門家を気取るつもりはないし、僕よりも賢い人たちがニーチェの考えを理解しようとしている。しかし、僕にとっては、彼の『神の死』という考えと、人類の行く末について考えさせられた。もし僕らが『海を飲み干す』としたら、その中で航海することができるのだろうか?かなり抽象的に聞こえるけど、僕は多くの曲が何らかの形でその問いを投げかけていることに気づいたんだ」

音楽的にはベースとドラムを1st以来初めて本格的に導入したアルバムとなった前作『The Plantation』でのエヴァーグリーンなバンド・サウンドを踏襲している。グレッグ・J・ウォーカーはプロデューサーとしての役割以外に、レコーディングとミックス、そしてベース、チェロ、ヴァイオリン、コントラバス、ギター、マンドリン、シタール・・・と多くの楽器演奏までを担当している。他には前作に続き、クリス・ヘルムがドラムを担当し、また、オーストラリア人シンガー、ジャニー・ゴードンが数曲でコーラスを務めている。なお、バンド・マスターとして長年タマスを支えてきたマルチ・インストゥルメンタリストのネイサン・コリンズは今回は不参加となっている。

先行シングルでもあるオープニング・トラック「It Shakes the Living Daylights from You」は、より変化が感じられる、グレッグ・J・ウォーカーとのコラボレーションが結実した1曲だと言えるだろう。タマス・ウェルズ最大の武器である中性的な美しい歌声の多重録音ハーモニーと、グレッグ・J・ウォーカーならではのソフト・サイケデリック・フォークのプロダクションが融合した楽曲で、サイケデリック期のビートルズからの影響も垣間見える。

もう1曲の先行シングルとなった3曲目の「Every Other Day」は前作の「Please Emily」に並ぶ爽快感のあるネオアコ的ポップネスをまとった1曲。病院を舞台にした歌詞は不穏さを隠さない。「Please Emily」もそうだったが、暗い歌詞をとびきりポップなメロディーに乗せて歌うのもタマス・ウェルズならでは。

コロナ以外で本作に大きな影響を与えたのは、絵を教えてくれた最愛の父の死である。「It's Not the Same」はそんな父を偲んで書かれている。ピアノ弾き語りで始まり、アコースティック・ギター、チェロ、ドラムなどが加わり、「毎日あなたが恋しい」と切なる想いが歌われる感動的な1曲。抽象的な歌詞が多いタマスがここまで自身の心情を吐露した作品は珍しい。

「August I Think Nothing Much at All」は、アコースティック・ギターを中心としたミニマルなプロダクションでこれぞタマス・ウェルズといった美しいアコースティック・フォークを響かせる。サビでは4月から8月までの月の動きを歌詞の中で表現している。彼が敬愛するサイモン&ガーファンクルの名曲「April Come She Will」の歌詞も同様の構成ではあるが、特にその曲との関連性はないそうだ。

最後に本作のアートワークについて。印象的なカヴァー・アートワークにはフィラデルフィア在住のフランス人アーティスト、アガーテ・ブートンの「Burmese Days」シリーズからの作品が使用されている。「ミャンマーの日々」というタイトルの通り、ミャンマー豊かな織物や、伝統的な衣服の独特な形にインスピレーションを受けた版画と裁縫によるアート作品。当然、タマスはミャンマー時代から彼女のことを知っていて、メルボルンの家には彼女の作品がいくつかあるとのこと。「Burmese Days」はその美しい色使いがアルバム・タイトルとつながっているように感じたことで、今回の作品に使用されることになった。

タマス・ウェルズの音楽に出会って20年近くが経ったが、個人的にはこの20年で結局彼以上の歌声に出会うことはなかった。先日49歳の誕生日を迎え、アーティストとしては円熟期に入ったと言っていいだろう。この変わらない歌声を堪能して欲しい。そして、この歌声の存在を拠り所に。これからの20年を想像しよう。

2023年11月28日 大崎晋作(Lirico)


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