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「発熱」

過ぎ去った日々は取り戻せない。だから、感じたその時にすぐに、言うべきだったのだ。

言えなかったからこそ、その言葉はいつまでも喉に引っかかって、飲み込むことが出来なかった。

「私は嫌だった。それは私の意思に反している。だから、従いたくない」そんな簡単な言葉が出てこなかった。

だから、相手は益々威丈高に、私をさいなまし続けた。全てにわたり、随うしかない敗北感が、次々に重なり重みを増し、とうとう私を押し潰したのかもしれない。

すると熱が出てきたような気がした。出て来て欲しいような気がしていると、実際、熱はどんどん上がっていく。悲しくもないのに、涙を出したいと思っていると、涙がいつのまにかじわりと浮かぶように。

熱を出せば、あの厳しい責め苦は和らぐ。やらねばならぬことも許される。それしか逃げる道はなかったのだ。

逃げる、逃げる。苦しい責めから。口実は作られる。私は私ではなく、1人の病人となり、責められなくなるのだ。

私は無実の罪人として、死なない程度に生かされ、そして責苦に堪えなければならない。

外に出れば、弱々しい不完全で頭の悪い、取り柄のない人として、紹介される。比較対象の相手として。そうしていれば安全だし、傷つかないし、責苦は緩められると体得していた。

はたから見れば何不自由ない生活をして、お気楽だと言われても、ヘラヘラとしていれば、やり過ごせた。

私は魂だけでなく日常をも、悪魔に売り渡していたのだ。

上手くなったのは、演技力だ。病弱で皆から労わってもらえて、他人に幸せをアピールする、陶器でできたような壊れやすい人形、それが私だ。

おや、声が聞こえる。早くベッドに入り、熱をはからなくては。

ママンの足音が近づいてくる。


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