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「宗教生活の基本形態」(デュルケーム著)という本を読んで儀礼とは何か?と考えた結果、プロ野球って壮大な儀礼だなと思ったこと、あるいは社会の楽しみ方について

 儀礼について考えようということになり、それについて考えるなら「宗教生活の基本形態」(デュルケーム著)を読むと良いのではないかということで、かいつまみながら読んだ。

 「宗教生活の基本形態」(デュルケーム著)の第三部では、オーストラリアの部族が行う様々な儀礼について、「彼らはトーテムを増やそうとしてるんじゃないかな!この儀礼には多分こういう意味があって〜」などと色々議論されていた。
 しかし、第三部第四章の三、表象的ないしは記念的儀礼において、衝撃の事実が発覚する。
>シュトレローによれば、オーストラリアのトーテミスムについてのこの見解は、原住民の心性にはまったく無縁であるという。彼は次のように述べている。「あるトーテム集団の構成員が、聖化された動物種ないしは植物種を繁殖させようと努めて、他の集団に属する仲間たちのために働いているように見えたとしても、この協働をアルンタ族ないしはロリチャ族のトーテミスムの根本原理とみなすことは慎まねばならない。黒人[=現地人]自身は、そのようなものが彼らの儀式の目的であるとは、決して私に語らなかった。
>「これらの儀式を決定する理由はどのようなものなのか、原住民に尋ねてみると、彼らは口をそろえて答える。それは祖先たちがそのようなものとして創設したからだ、これこそが、自分たちが他のやり方ではなく、このやり方で振る舞う理由なのである、と」

 つまり、「儀礼は本質的に意味はない。先祖がやってたからやってるだけ」らしいのである。


 「儀礼って意味わかんないの多くない?なんでやるの?」を解き明かすために読んでいたのに、「儀礼は意味ないです」という回答だったので、「意味ないのか〜〜〜そんな〜〜〜部族のノリに乗れないやつは儀礼を楽しむことはできずおしまいなのか〜〜〜???」とガックリしてしまったのだが、逆に考えれば、儀礼を楽しむコツさえ見つかれば社会を楽しめるようになるかもしれない。

 自分が参加している儀礼には何があるだろう?と考えてみたところ、かなり身近にあった。プロ野球である。


 野球とは、ものすごく大雑把に言うと、すごい勢いで投げられた球を木の棒でしばき倒したり倒さなかったりし、球のゆくえによって人間を一定の方向に回す競技である。ユニフォームによって分けられた2つのチームが決められた回数(基本9回)交互に攻撃と守備をし、白いところ(ベース)を決まった手順で4回踏むことで点が入り、点が多いほうが勝ち。

 プロ野球とは、プロが行う野球である。プロ野球と言ってもいろいろあるが、とりあえず自分が知っているのはNPBなのでNPBの話をする。
 前述の通り、野球とは人間にベースを決まった手順で4回踏ませるために全力を尽くす競技であり、それ自体にはなんら物質的生産性はない。
 しかし、プロ野球は超巨大興行である。年間で858試合(1チームあたり143試合)あり、"毎試合平均で"約3万人が球場に来ていた。ライブで1度に3万人集めたら凄いことなのに、プロ野球は平日も休日も晴れの日も雨の日もひっきりなしに開催してこれである。
(※これは2019年のデータである。今後は新型コロナの影響でどうなるかはわからない。とりあえず今年はいろいろてんやわんやしている。後で新型コロナ下におけるプロ野球応援の儀礼の変化もまとめてみたい)
https://npb.jp/statistics/2019/attendance.html
 自分もプロ野球(スワローズ)ファンだが、野球は本当に楽しいし、生きる活力になっている。プロ野球は毎日のように推しのライブが見られるようなものなので最高。


 物質的には意味がないのに、なぜプロ野球はこれほどまでに人を呼びよせるのか?
 これにはデュルケームがウォルンカ蛇の表象的儀礼(物質的に意味のない儀礼)について解説したこの箇所によって説明できる。
>この祭礼(※注:ウォルンカの祭礼)が執り行なわれるのは、祖先たちがこれを執り行なったからであり、非常に尊敬された伝統に対するのと同様に、人びとがこの祭礼につなぎ止められていて、道徳的な満足の印象とともにこれを終えるからなのである。
>それゆえここにあるのは、もっぱらいくつかの観念と感情とを呼び覚まし、現在を過去へ、また個人を集合体に結びつけようとする一群の儀式なのである。実際、それらは単に、諸他の目的に役立ちえないだけではない。信徒たち自身がそれ以上のものを何も要求していないのである。


 プロ野球の熱狂する部分は、ルールによって厳密に決められている。例えば打球が特定の方向に落ちたら選手やファンが「やったー!」と喜ぶ、もしくは「あちゃー」とガックリする、そういうポイントがたくさんある。人間が発火するポイントが随所にあるといえる。

 応援の儀礼は、「感情の表出」のやり方を統一化することで、個々の発火を増幅している。各球団の応援団が、ラッパや太鼓などでファンを扇動し、選手を鼓舞する歌や得点による喜びの歌、球団歌などを歌う。自球団のチーム・選手を応援すること、または相手チーム・選手の応援をしないことを繰り返すことにより、集団への帰属意識が高まり、プロ野球という祭礼に繋ぎ止められる。個人の喜びは大きなうねりとなって集合的沸騰を成し、一人では到達できない興奮状態へと向かう。

 つまり、プロ野球の応援はデュルケームの言うところの「道徳的満足」を引き起こし、個人を集合体に結びつける壮大な儀礼なのである。


 ここまでの話から、「儀礼には本質的には意味がないこと」「ハマると楽しいこと」がわかった。では当初の目的である「社会を楽しむ」をやるにはどうすればいいのだろうか?正直に言うと、わからない。
 表象的儀礼は「いくつかの観念と感情とを呼び覚ま」すことを目的としているので、儀礼で観念と感情が呼び覚まされないタイプの人間が儀礼にハマれるかどうかはわからない。
 ただ、一般に何らかの運動をすると人間は楽しくなるように出来ており、儀礼は運動のやり方を決めるものである。なので、「何でこんな儀礼やらなくちゃいけないの?」と思わず、まず始めてみると儀礼の楽しさがわかってくるのかもしれない(文化祭とかも、意味ねーと思って適当にやってた人より、真剣に打ち込んでた人の方が楽しそうだっただろう、多分そういうことだ)。
 もしくは、「儀礼やりたくない!」という気持ちが生まれた時点で「儀礼やりたくない」という感情が呼び覚まされているので、「『儀礼やりたくないよねー』と言う儀礼」をやるといいのかもしれない。そういえば、プロ奢儀礼研究所では「儀礼やりたくないよねー」「わかるー」をよくやっていた気がする。スタンダードな儀礼が苦手な人は、「スタンダードな儀礼が苦手な人用儀礼」を作ってしまうと楽しめるのかもしれない。


人間の資本が増えます。よろしくお願いします。