200803 人付き合い2


考えごとの続き。

私は、他者との共通項の多さに基づいて、連帯の可否を判断したくない。
たとえば、数少ない友人にはごくたまに連絡をとって「変わりないか?そうか、では達者でな」くらいのやり取りができれば、基本的にそれで私は満足だ(次にいつ会えるか、またそれが実現可能なのかはわからないという意味で、何となくこの口調がしっくりくる)。

知り合ってから時間の経つ友人とは、住んでいる場所が違えば、仕事、家庭、趣味、価値観その他諸々、日に日に共有できるものは少なくなってゆく。開いた距離は簡単には縮まらないだろうし、これからも離れていく一方かもしれない。
だけど、そういう友人が今の私にとって身近な存在であるかどうかは、それほど重要なことではないと思う。というか、どうでもいい。自分との類似性、同一性、共通項の数が友人を定義するための尺度のすべてだなんて、そんなのは寂しい。

「友人」という括りだけでなく、かつてお世話になった人や共に長い時間を過ごした人たちが、これから先どんなに遠い存在になったとしても、彼らとの関わりが続く限り、私は彼らの健康と幸福を願い、その存在と意志とを尊重できる人間でありたいと思う。


…というような訳で、繰り返すと、私は他者との共通項の多さに基づいて、連帯の可否を判断したくない。
たとえ思想信条を全く共有できなくても、その人が助けを必要としていれば、すぐさま駆けつけて手を差し伸べられるようになりたいし、趣味趣向が似ていて「共感」しやすいからといって、無邪気にその人を(いつでも自分の期待を裏切らない、自分にとって都合の良い存在として)「信用」しようとは思わない。

徒党を組んで誰かをいじめたり、集団同士で無用な争いにかまけたりせずに、長い目で見て個人の「自由」とか「平等」みたいなものを追い求めるのであれば、自分の目の前の、足元の出来事に対するスタンスは、自ずと上記のようなところに落ち着くのではないか、と私は思っている。

だけど皮肉?なことに、この態度をラディカルに推し進めてそれを実践すれば、私はごく自然に「ただの孤立した人間」という場所に腰を落ち着けることになってしまうんだよな。これが今の私にとって、一番の考えどころでもある。思考回路がどこかでバグってるからこんなことになるのか、それとも見方を変えれば、今の場所と目指している方向に間違いはないのか。


私には、物理的な接触はなくても間接的に人と関わることができれば、割と満足してしまうようなところがある(たとえば、誰かのnoteを読んでスキを押すなど)。物理的な面で限りなく孤独な今が、全く辛くないと言い切るのは強がりだと思うけど、だからといって、自分が弱っているときの気まぐれな人恋しさに身を任せて、他人に寄りかかるようなこともしたくない。だとすれば、私にとって「健康的な人付き合い」って、どんなものなんだろう?

答えを見つけるには、もうしばらく色々試す必要がありそうだ。
とりあえず、今日はここまでにしておこう。