181010 「観照」的読書について

追記(200721)
削除記事の再掲(一部訂正済み)、八つ目。

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1.「観照」とは

先日、ある本を読んでいて「観照」という言葉が出てきた。そして、私が何か物事を理解しようとするときの眼差しは、まさにこの「観照」的なものではないかと、やけに腑に落ちるところがあった。

かん しょう くわんせう [0] 【観照】
( 名 ) スル
① 主観を交えず、対象のあるがままの姿を眺めること。冷静な心で対象に向かい、その本質をとらえること。 「人生を-する」 → 観想
② 美学で、美を直観的に受容すること。自然観照と芸術観照とがある。 → 静観 ・鑑賞(補説欄) 

三省堂 大辞林 第三版

たとえば、大学のゼミで「課題図書を読んだ上で授業で掘り下げたい論点を提示する」という作業が、私はとても苦手だった。単純に勉強不足という事実もあったけれど、当時の心境を振り返ってみると、私は大体以下のようなことを考えていた。
「本の内容は、その著者の視点・立場に(私の)身を置く限りにおいて、常に正しい。そこを離れて私が私自身の場所に居座ったまま、彼らの主張の是非を問うことに、一体何の意味があるのだろう。」
このような調子では、論点など見出しようがないのは当然である。

2.読書と「観照」

読書全般に対しても私はおよそ「観照」的である。つまり、悪く言えば主体性や批判精神に乏しく、内容を鵜呑みにしがちである。しかし、単純に「盲信する」のとは少し違う気がしていた。それは「著者の考えをそっくりそのまま自分の中に取り込む」というよりも、「著者の思考様式やバックグラウンドを含めた言葉の展開の中に自分の身を投げ出す」感覚に近かった。別の言い方をすれば「著者が自分に憑依する」、そのような体験である。

だから、本に関するメモや感想を読み返すと、著者の言葉遣いを無意識に真似ていることに気づいたり、読んだことすら忘れていた本で目にしたワードが突然夢に出てきたりする。今こうして書いている文章も、知らぬ間に過去に読んだ本を模倣していることがあるから、剽窃には十分注意しなければ…などと考えることもある。
これらが自分に特有の経験とは思わないけれど、自分自身の物事の理解の仕方を客観的に捉えるうえで、「観照」という言葉が一つの役割を果たしてくれたことは間違いない。

3.本を読むことへのためらい

自分でも気づかないままに「観照」的読書に慣れきっていた私にとって、それは必ずしも良い経験ばかりではなかった。一旦「憑き物」が落ちてしまえば、意識の上では本の内容を全然自分のものにできていなくて落ち込んだし、たくさんの本を読んでもただ色々な「憑き物」が出入りするだけで、結局自分自身が何を考えているのかは分からず、混乱しがちだった。特に何かの衝撃で「憑依」が強制的に解かれたときは、「どんなに優れた書物のありがたい箴言を以てしても、私の現実は変えられない」という絶望感にとらわれることが多かった。そうして、気づけば読書そのものに対して消極的になってしまう時期も少なくなかった。

4.本と対等な関係を築くために

しかし、「観照」という言葉を通して本の読み方に対する理解を一歩進めることができた今、これまでになく前向きに読書に臨めるような気がしている。

読書において、私は一度無になる。
これが「(読書をすれば)いつの間にか無になってしまう」なのか、「(読書のために)一旦自分を無に帰そうと試みる」なのか、両者には天と地ほどの差がある。前者は暗闇のなかで道に迷うこと、後者は自らの意志で未知の世界に飛び込むことを意味するからだ。


ウェブスター『あしながおじさん』土屋京子訳(光文社古典新訳文庫)光文社(原著初版1912年)のなかで、孤児院を出て大学に通い始めたばかりの主人公ジュディが、以下のように語る(手紙でおじさんに伝える)場面がある。

ひとつ、どんな事情があろうとも死守するルールを作りました。翌朝どれだけたくさんの試験が控えていようとも絶対に絶対に夜は勉強しない、というルールです。そのかわりに、ふつうの本を読むのですーというのも、わたしの場合、十八年間のブランクがあるからです。わたしがどれほどのものを知らないか、おじさまはきっと信じられないと思います。わたしだって、いまようやく事の重大さを自覚しはじめているところなのですから。ふつうの家庭で親きょうだいや友人や本に囲まれて育った子ならあたりまえに知っていることを、わたしは聞いたことさえないのです。
(中略)
とはいっても、これはとっても楽しい努力です!毎日、夜になるのが待ち遠しいです。夜になったら、ドアに「とりこみ中」の札をかけて、お気に入りの赤いバスローブにくるまって、毛がもこもこの室内履きをはいて、長椅子の背にありったけのクッションを積んで、読書用スタンドをすぐ脇に持ってきて、本を読んで読んで読みまくるんです。一冊だけじゃ足りなくて、同時に四冊読んでいます。

孤児院で育った女の子が、本に出会い読むことの純粋な喜びをまっすぐに語るこの場面には、この作品の出版からおよそ110年後の未来を生きる私が、ともすると忘れがちな「何か」を呼び起こす力を感じる。

一つ一つをかけがえのないものとして、ためらわずに本に挑んでみよう。