見出し画像

210808 〈読書〉社会的因襲とどう向き合うか

最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
芥川 竜之介『侏儒の言葉』より)

新聞記事でこの一節が紹介されたとき、筆者(鷲田清一さん)は以下のような言葉を添えていた。

 社会の歪(いびつ)、もしくは不全を、憂い顔で、しかも自身は安全地帯に身を置いたまま批判するというのは、“批評家”の偽善であり狡知(こうち)であると、作家は自戒の念を込めつつ揶揄する。だが、噂話のような情報を基ににぎにぎしく同時代の政治を嘆く現代人も、意識せずしてこの“批評家”の列に連なっているのだろう。
(鷲田清一「折々のことば」『朝日新聞』、2019年3月2日、朝刊、p.1より)

この解釈に従うなら、恐らく「最も賢い処世術」との言い回しは痛烈な皮肉であり、芥川は「社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をする」人間を揶揄していると考えられる。私の単純な頭は、長らくこの皮肉に気づいていなかった。それどころか、社会的因襲を軽蔑しながらそれと矛盾せぬ生活をすることを、文字通り「最も賢」く、望ましい態度であるかのように受け止めてきた。それはなぜか。

まず、何か物事を軽蔑するにはエネルギーが要る。ある対象について無関心でなく、負の感情を持ってそれを受け入れるのを積極的に拒否するには、一定の気力と体力が求められる。それなりの意志がなければ、何かを「軽蔑」する行為に及びそれを維持することはできない。加えて、ある因襲を心の底から軽蔑したとしても、その因襲が社会から消え去るには、大抵人の一生では足りない程度の月日を要する。因襲に盛衰は付きものだが、一個人の目から見ればその変化は遅々たるものだ。要するに、因襲の打破は容易ではない。

では、ある人が一生をかけても打ち砕くことのできない因襲を軽蔑し、その意志に従って因襲に抗う生活を続けたとすれば、その人はどうなるのか。自らの意志を貫く強さを備えた人間であれば、因襲への軽蔑と抵抗を全うするのかもしれないが、私ならきっと途中で心が折れてしまうだろう。因襲と矛盾した生活は人を孤独にし、孤独は人の精神を蝕む。したがって、軽蔑しつつ、しかも逃れがたく自分の生活に根を張る因襲と共に生きざるをえないならば、それと「矛盾せぬ」生活を試みるのは、至極全うな心理ではないだろうか。つまり、自分の全生涯をも超える時間を見据えて着実な因襲打破を成し遂げることを望むなら、表面上、ある程度因襲に対して妥協的な態度を取ることも必要なのではないか。将来因襲に打ち勝つためにこそ、現在における因襲との矛盾を回避する。そうした面従腹背的な態度にも、一定の妥当性を見出だせるのではないか。

しかし、因襲に対する真摯な軽蔑と、因襲と矛盾せぬ生活とを両立させるには、多くの苦悩と葛藤を伴うことになるだろう。それは決して安楽な道ではない。軽蔑が深刻なものであればあるほど、矛盾を回避するためには、非常に繊細な時代感覚と不断の思索に身を晒し続けることになる。軽蔑しつつ(ある意味)迎合するのは、この上なく骨が折れる作業なのだ。

そうか、この辺りまで書き出してみてやっと答えが見えてきた。「矛盾せぬ」の部分を「矛盾を感じない/感じ取れない」と読むか、「矛盾を超克し、(少なくとも表向きは意図して)矛盾を生じさせない」と捉えるかによって、冒頭の一文の印象は全く異なってくる。私はずっと後者のイメージを持っていたので、この一文を額面通りに受け入れ、肯定的に理解していた(皮肉を見出さなかった)。

芥川自身の真意がどこにあるのか、私には分からない。ただ、私はこの一文から想像を広げすぎて、曲解の域に足を踏み入れていたのだろうと感じた。「社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすること」――本文から離れてこの文言に個人的な解釈を加えるならば――これは私の望みの一つである。

因襲を軽蔑しつつ矛盾を回避するには、大変な労力を要する。言い換えると、そこに労苦を感じないのであれば、その人は因襲に追従しているのであり、彼・彼女が抱く「軽蔑」とは所詮その程度のものでしかない。手間と苦痛を承知の上で、それでも矛盾の生じないように取り繕う努力をすることは、決して「偽善」でも「狡知」でもないと、私は思っている。一生活者として因襲の理不尽を飲み込みながら、他方で一人間として因襲に対する軽蔑の意志を維持し続けること。私はこの限りない忍耐の先に、因襲が砕け散る瞬間を夢見ている。