200615 自由と探究の心


私が好きな学者さんの話し方は、大体二種類に分けることができる。

一つは、自分の研究やその対象が好きでしょうがないという様子で、止めどなく永遠に喋り続けてしまうような人。分かりやすさは二の次で、頭の中にある膨大な知識が外に飛び出て走りたがっているかのように、次から次へと話題が移り変わってゆく。唾を飛ばしながら聴衆の方へとにじり寄っていき、相手が若干引いていても全く気づかずに一人語りを続けてしまうくらい、ただひたすらに研究のことで頭が一杯になっている感じの人。本当に愛してやまないものがある人は、エネルギーに充ち溢れていて、研究を通じて、生きることそのものを目一杯楽しんでいるのだろうな、と思わされる。

もう一つは、視聴側を楽しませようというサービス精神は一切なく、常に学者然とした振る舞いを崩さず、一分の隙もなく緻密に組み立てられた論理を、ニコリともせず淡々と開帳していくパターンの人。学知に対して極めて誠実で、可能な限り正確に情報を伝達しようとする、その真摯な姿勢にただただ感服させられる。恐らく次の言葉をまとめようとしているときに生まれる、わずかな沈黙がいとおしい。たまにジョークをこぼすこともあるけれど、表情もテンポも変えず、冷静な調子のまま差し挟んでいくから、見てる人たちのウケは今一つ。そんなところも含めて、好き。


いずれにせよ、彼ら彼女らに共通しているのは、学問に対する揺るぎない探究心と、徹底的に囚われを廃した開放性の高い精神。どんな分野であれ、物事の本質を捉えるためには、その時々の「常識」からは一旦身を引き剥がす必要がある。もしも愛すべきもの(研究対象)を持っている人が、「常識」という足枷によって身動きがとれなくなってしまうとしたら、それはとても悲しいこと。特別な人として優遇すべきということではなく、道を阻むものさえなくなれば、それで十分だと思う。彼らは自らの手で道を切り拓いてゆく力を、十二分に備えているだろうから。そしてこれは、「学者」と呼ばれるごく一部の人に限らず、すべての人に言えることではないかと、私は思っている。

私は探究者たちのたゆまぬ努力の結晶としての数々の知見に、幾度となく助けられて生きてきた。次世代の探究者たちが足枷に囚われることなく、自由にその力を発揮できるようにするために、私にできることがあるとすれば、それは一体なんだろう。