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200628 あじさいの外縁

この時期になると時折思い出す。
小学生の頃、あじさいをテーマに詩を作り、花の絵を添えて自作の詩を色紙にしたためる、という授業があった。担任の先生はこうした創作的学習を重視し、いつにも増して熱心に取り組んでいた。
私の気を重くさせたのは、あじさいの絵を下書きなしでペンで書くように指示されたことだ。先生曰く、上手に描こうなんて思わず、心の思うままに描いてみることが大切だから、と。

何事も下準備をして少しずつ進めることを好んだ私にとり、まっさらな色紙に消すことのできない油性のペンで絵を描くことは、大きなプレッシャーとなった。加えて、元々絵を描くことに苦手意識があったので、作成開始の合図の後、ペンを握りしめたまま少しも描き始めることができずに、私は固まってしまった。

私の様子を見かねた先生がそばに駆け寄り、「難しく考える必要はないのだから、あなたの目に見えるままに描けばいいのよ」と声をかけてくれた。
私はその言葉に励まされ、花瓶に生けたあじさいの花を、一生懸命にじっと見つめてみた。そして、あじさいの花の青と、背景に見える黒板の色とを隔てる境目の線を、少しずつ、恐る恐るなぞり始めた。つまり私は、あじさいを描き始める一歩として、小さな花(正しくは花ではなく「がく」にあたるらしい)が集まって手まりのような膨らみを成す花の外側を縁取り、大きくて少しいびつな円を描いたのだ。

そばを離れていた先生が慌てて私のところに戻ってきて、「どうしてそんな横着なことをするのか」と言い、半ば驚き呆れた様子で私の手を止めさせた。どうやら先生の目には、私が花弁の一つ一つを捉えずに、手抜きをして済ませようとしているように見えたらしい。一度書いてしまった以上はしょうがないから、その上から描き直しなさい、と言われ、私は改めて小ぶりの装飾花をちまちま描き始めることになった。
最終的に黒い外縁の上に醜く描き重ねて仕上がった無様なあじさいの姿を見て、ひどく惨めで情けない気持ちになったことを覚えている。当時はしばらく落ち込んで、ますます絵が嫌いになったけれど、先生を恨む気持ちはないし、先生は先生なりにがんばっていたのだろうと思う。


大人になった今思うのは、自分の考える「自由」はどこまでも制約付きのものでしかないこと。そして、自分が想像したことのないものに出会うとき、人は狼狽え、怯え、脅かされた自分の世界を守ろうとするあまり、無意識のうちに心無い言動に出る可能性があるということ。
特に、大人の想像の及ばない形で文字通り「とらわれのない」発想をする子どもたちに対しては、自分でも気づかないうちに思考の枠(想像力の限界)を押し付けてしまっているかもしれない。せめて、そういう危うさに気づこうと努力できる大人でありたいなと思う。