200607 本音
危機は本音を暴くという。今回私にとってそれが最も顕著だったのは、人間関係、とりわけ「結婚」に対する考え方だったような気がする。
少なくとも私が目にしたメディアでは、「コロナ禍の婚活市場が盛況、相談所の成婚率UP」といった記事が目に入った。「苦難を共に乗り越えてゆける人がほしいなど、ステイホームで人との繋がりを切実に求める声が増えた」といった論調だった気がする。
それらを見て自分の反応が真逆であることに気づき、ふと笑いがこぼれた。私は自分の婚活もどきのぬるいパフォーマンスがばかばかしくなって、一旦白紙に戻そうと思い至った類いの人間だったからだ。言うまでもなく、A→Bという流れがあれば、B→Aと変化する人がいるのも当然だ。それぞれの「日常」が大きく揺らぎ、雑音と周辺を削ぎ落として事の本質と向き合わざるをえなくなったとき、その人の「本音」が見えてくるのだろう。
加えておもしろかったのは、コロナ以前も、別になんとなく流されて結婚を考えている気は全くなかったことだ(少なくとも自覚の上では)。むしろ、自分なりに色々な要素を総合して熟慮した結果、結婚に向けた努力は自分に必要なことであると結論付けていた。「結婚」というものと向き合わなければと思い立ち、手始めに『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』を読んで以来、「結婚」について考え続けておそよ3年半。正直なところ、制度としての「結婚」に対する興味の方がやや(遥かに?)優勢だったし、そもそも結婚以前の問題で躓いていたから、すぐにどうこうしようと思ってなかったのは事実だ。
それでも、いずれ(できるだけ遠くない未来において)結婚した方がよいとは感じていたし、自分なりに真面目に考えてきた「つもり」だった。より広い意味では、自分のなかに「人との繋がりを求める気持ち」があることを認め、それと向き合っていかなければならないということを固く信じていた。人間関係から逃げてはいけない、と。人との関わりの中で自分を再発見したり、私が誰かの支えになることの喜びを知ったり、そういう協力とかパートナーシップの可能性を信じてみたい、と。
2,3月は感染拡大の懸念が広まる中でのやむを得ない外出が続き、かなりの疲労を感じていた。それから気持ちを立て直して以降、食料品の買い出しを除き、一切の外出を控えるようになった。私はコロナ以前から一人きりで過ごす時間の多い生活をしてきたけれど、それに輪をかけて、あらゆる人との接点が遮断され、朝から晩まで向き合う相手といえば、机(PC)かキッチン(食材)くらいだ。そうして孤独な時間を過ごした結果、私はこの2ヶ月、自分の人生で最も創造的かつ生産的な日々を送ってきたことに気づき、とても驚いている。
もちろん、この危機の最中にあってそう言えるのは、とりあえず明日の寝床と食事に困らないで生きていられる、その拠り所があるというこの上ない幸福にあずかっているからだという点は、何度も心に留めておく必要があると思う。自分が手にしているこの「安心」は、数々の「偶然」と「恩恵」の上に成り立っている。そのことを重々言い聞かせた上でそれでも尚、やはりこの2ヶ月は最も心が強くあれたという気持ちは変わらない。
それはなぜなのかを問うてみると、ひとえに一人で(家に)いるべき理由、即ち大義名分を、この危機が与えてくれたことにあるのだと思う。私は元々一人が好きだ。一人でいつまでもどこまでも、心を遠くに飛ばすことができる。だけど、これまで一人でいるときには、いつもどこかで「このままではいけない」という後ろめたさが同居していた。「私は社会適応能力が低いから、人付き合いが下手だから、殻にこもってないで外にでなければ」というある種の強迫観念に駆られ、いつも一人きりで空想に遊ぶ時間から無理やり自分を引きずり戻してきた。
だけど今、なんの留保も言い訳もなく、一人で過ごすことができる。「危機」が十分な理由をもたらしたから。そのことが、私に心置きなく想像と創造の世界に没頭できる時間を、それを憂いなく自らに許す心を、与えてくれたのだろう。
要するに私は、どうしようもなく、一人でいたい。なぜなら一人きりでいるとき、私は最も自分を能動的に生きることができるから。「客観的」に「最適解」をはじき出すならば、私が一人でい続けるべき理由は見当たらない。そのことは十分わかっている。だからこそ一人じゃない生き方に適応すべきだと頑なに信じこもうとしていたし、人間関係や結婚にまつわる自分の課題を克服しようと試みてきた。だけどやっぱり「本音」のところで、私は一人の時間がなくなることを望んでいなかったんだ。今回そのことを自覚させられた。
もちろん、こうして「やっぱり一人が好き」ってことを自覚したからといって、社会との関わりを断ち切ることはできないし、人間関係を「どうでもいい」と思うようになったわけでもない。そういう切り捨てを自分に許してはならないという気持ちに、変わりはない。
つまり、人間関係は決して「どうでもいい」わけではなくて、表現としては「なんでもいい」に近いのかな。これから先も、身近な人との意思疎通がうまくいかなかったり、結婚について悩んだり、クヨクヨしてへこたれて、一人孤独に悩むことはたくさんあると思う。そのとき、きっと私は瞬間的にこう思う。「やっぱり一人きりでいたいだなんて、甘えた考えだったんだ。人と関わる努力をしてこなかったから、今苦しむことになっているんだ」と。
そういう心の声に対して、私は断固として異を唱えなければならない。苦しいとき、自分の弱さを突きつけられたとき、慰めと責任転嫁の手段として、「人との関わり」にその理由を求めてはならない。どんな孤独も苦しみも、「誰か」の力で逃れることなんてできないよ、絶対。
「こんなとき支え合える誰かがいれば、落ち込まずに済んだかもしれない」「お互いに頼り合える人がいれば、ここまで一人、孤独に苛まれることはなかったかもしれない」薄々気づきかけていた、そういう発想の浅ましさを、私はついに認めざるをえないところまで来てしまったんだ。「危機」という名の圧倒的なリアリティを前にして。
少なくとも私が漠然と夢見ていたような「誰か」や「誰かとの関係性」が、私自身が抱える問題を解決してくれることは、決してない。なぜなら、私の問題、私自身の内面にある弱さや不安、恐れは、他ならぬ私自身が生み出しているものだから。自分の力を信じ、発揮する努力をしない限り、誰の慰めも励ましも、私は私の糧とすることはできないだろう。
一人でいたいという意思と選択は、私の「頭」が導く「最適解」からはほど遠い。一般論として「一人はだめだ」って言いたいんじゃない。他ならぬこの私の「頭」が、「一人はやめときな」って何度も言ってくる。そういう「頭」を無視してゆく道には、数々の困難が待っているだろう。けれど、たとえそうであるとしても、私はそれらの困難に正面から立ち向かわなければならない。少なくとも今この瞬間、一人でいたいというのが、私の「本音」なのだから。それは、生まれ持った気質と境遇と触れてきたものと、私を取り巻くありとあらゆるものの複合的な結果として、今目の前に立ち現れた、正直な気持ちなのだから。
だから、外の世界に自分の弱さの理由と解決を求めるのはもう辞めよう。一人でも二人でも大勢でも、どんな状況下でも、その時々の自分の力を最大限発揮できるようになるために、今の自分にできること、やるべきことをただひたすらに黙々と、やり続けよう。そうやってがむしゃらに努力して、もしもその先で「誰か」と出会えたなら、そこで「誰かとの関係」を描くことができたなら、それは数々の「偶然」と「恩恵」から生み出されたものとして、心から大事にしよう。それが私の、人間関係である。