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220114

最近ほとんど考え事をせず、日記も書いていない。年末は忙しすぎたという理由もあるけれど、少し余裕ができてからも、それほど書くことに気持ちが向かわない。

忙しさには慣れた。仕事量に見合う対価を受け取っているかと問われると素直に頷くことはできないけれど、正直それほど気にしていない。屋根の下で眠ってご飯が食べられたら、十分満足だ。一般論として、労働には適切な対価が支払われるのが望ましいのだろうとは思う。ただ、自分個人の状況に限って言えば、特に報われることを期待して仕事をしているわけではないし、何なら暇つぶしに近い感覚で日々目の前に現れる業務をわりと機械的にこなしている。そのせいで自分が削られているような感覚も特にない。これまでの遅れを取り戻そうとしているのか自分でもよく分からないけれど、とにかくよく働いている。役に立っているかはともかくとして、我ながら意外だ。

最近は本も読まなければ、映画も見ない。普通に掃除して洗濯してご飯を食べて、そうして生活していると、時間はいつの間にか過ぎていく。日々本に助けられていた頃は、本とともにあることのできない生活は考えられないと決めつけていたけれど、案外そうでもなかった。もちろん生活の余白を完全に失うのはよくないと思うけれど、無理して本や映画にしがみつく気にはならなかった。今の生活には、今の最適がある。私はそれに満足している。虚無と絶望に苛まれていた頃は、結局忙しさが足りなかっただけなのかな。そうとも言えるだろうし、そうでない部分もあっただろう。過ぎたことについてあれこれ考える気にもならない。あれこれ考える余裕を与えないために、私は私を忙しくしているのか?

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色々な人と話していると、私は本当に頭の中が空っぽだなと思う。よく言えば柔軟、悪く言えば節操がなくて、誰が何を言ってもあまり抵抗なく受け入れている。Aさんの意見に「なるほどなー」と思った後、BさんがAさんとは全く異なる見解を示しても、同じように「なるほどな」と思ってしまう。両者が対立しているかどうかにはそれほど興味がないし、自分の意見がどこにあるかもよく分からない。ただ、話を聞いてて面白いな、楽しいなとは感じる。そして恐らく、AさんとBさんのうち自分にとってより身近な人の意見に従って、私は行動しているのだろう。

数ヶ月のうちに上司が変わり、二人は全く異なる考え方や性格の持ち主だったから、私が身を置く環境は大きく変化した。適応するのに苦労を感じなかったわけではないけれど、少し怖くなるくらい私はそれぞれの上司の考え方に染まっている。以前の上司の元でどんな風に仕事をしていたか、今は既に思い出せない。客観的に見るとあまりにも自己がなさすぎるのでは?と心配にもなるけれど、今のところ特に大きな支障もないし結局まあいっか、となっている。私は、言われたことを言われた通りにするだけのイエスマンになりやすいってことなのかな。とりあえず人を導く立場にはなれない気がするし、なりたくないと思っている。あまり役に立たないだろうから。

今の私は、イージーゴーイングな本性を遺憾なく発揮しているのだろう。身近な人の心が穏やかなら、私は特に何もすることがないなって思う。逆に平穏を脅かす要素があるならそれを取り除く方法を一緒に考えて、平穏を取り戻すためのお手伝いができればいいのになと思う。