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210613 〈読書〉「幸福は人格」なのか

 人格は地の子らの最高の幸福であるといふゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるといふことは人格になるといふことである。
(中略)
 幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるやうにいつでも氣樂にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし眞の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つのものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と鬪ふのである。幸福を武器として鬪ふ者のみが斃れてもなほ幸福である。
三木清『人生論ノート』より)

ここでの「人格は地の子らの最高の幸福である」とは、ゲーテのどの言葉を指しているのか。少し気になっていたので、今日は気晴らしも兼ねて引用元の翻訳を含む書籍を手にとってみることにした。この言葉は「西東詩集」のうち、ゲーテ自身が恋人マリアンヌと交わした相聞歌を含む「ズライカの巻」に収められている。この中でマリアンヌはズライカ、ゲーテはハテムとして描かれ、恋人たちの対話が進む。

ここで面白かったのは、詩集中の文脈を踏まえると、おそらくゲーテ自身が「人格は地の子らの最高の幸福である」と考えていたわけではないと推測されることだ。三木による引用箇所を含む対話は、次のように展開する。以下、ゲーテ(1996)『世界詩人選1 ゲーテ詩集』(大山定一訳)小沢書店、pp.200-201より。

  ズライカ

庶民も奴隷も支配者も
みんなが口をそろえていいます。
地上の子の最大の幸福は
人格のみである、と。

自分自身を失わなければ
どんな生活も苦しくはない。
自分が自分自身でさえあれば
何を失っても惜しくはない、と。 

ズライカのこの言葉に対して、ハテムは以下のように答えている。

  ハテム

なるほど、それもそうだ。みんなそういっている。
しかし、ぼくの考えはちっとばかりちがうのだ。
あらゆる地上の幸福は
ぼくのズライカの身にぜんぶ集まっている。

ズライカが惜しみなくすべてをぼくにつぎこむとき、
ぼくはぼくにとって貴重なぼくとなる。
ズライカがぷいと向うをむくだけで、
たちまちぼくはぼくを失ってしまう。

ハテムはもうそれでおしまいだ。
しかし、ぼくは決してそのまま引きさがりはしない。
すばやくぼくは変身するのだ。
ズライカの愛する別の恋人に。

ハテム=ゲーテ自身とみなすなら、(少なくとも、この詩を書いた頃には)ゲーテは「自分が自分自身でさえあれば何を失っても惜しくはない」のようには考えていなかっただろう。むしろ、ひとえにズライカ(マリアンヌ)への愛を以てして、そのような考えを否定しているように見える。では、三木はこの詩の一部を切り取って独自の解釈を加えたと言えるのだろうか。そこまで踏み込めるほどには両著書を精読していないし、そもそも単純に私がどこかで文脈を読み違えているだけなのかもしれない。けれど、ゲーテと三木との間に考えの違いがあるとすれば、それはそのまま人生観の違いに通じるのではないかと感じた。私の考えはどちらにより近いだろうか。どちらの言っていることも、分かるような気がしてしまう。