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211031 内面的調和

一時期、某性格診断ツールにはまって熱心に情報を集めていた。色々と情報を漁った後、科学的根拠の乏しさが度々指摘されていること等を踏まえ、過信するのは良くないと考えるようになり、気持ちが離れていった。でも、未だにふとした瞬間に思い出す。それはきっとこのツールが、現実で直面する様々な問題や感情に対処する際に、非常に腑に落ちやすい理解の枠組みを与えてくれるからだと思う。それに依拠することで、自分一人では整理しきれない状況について納得できる理由付けが得られる。だからつい、頼りたくなってしまう。とはいえ、私は元となる理論をきちんと学んだわけではなく、妙な情報の発信者にもなりたくないので正式名称を出すのは控えたい。以下の内容は、某ツールに触れて私個人が想像を広げて勝手に作り出した解釈に過ぎない。ここに、正しさはない。

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私は恐らくFiをメインで使っている。たぶん自分の意志の存在を自覚するよりも前の、物心がついた頃には既にFiを最もよく働かせていた。その後の性格形成において決定的な意味を持ったのは、最も身近な養育者が典型的なTeユーザーだったことである。ここから私の長い長い、迷走の日々が始まる。

私にとって本来Teはあまり馴染みがなく苦手なスタイルであるにもかかわらず、成長過程で最も重視され、疑いようのない確固たる地位を占めていたのはTeの価値観だった。私がFi的なふわふわした理想を吐露すると、親は全く悪気なくTe目線の反応を示す。それでなくてもTeが劣っていることは無意識のうちによく理解しているので、私は徐々に自分のFi的傾向を恥じるようになり、Teこそ正義だという考えを自分の中に植え付けるようになった。

外面は何とかTeユーザーのように振る舞えるようになったけれど、元々の性格傾向がいきなり消え去るわけではない。もちろん当時はこんな理解の仕方はしておらず、Te的に考え行動するのが自分にとっての自然だと信じて疑っていなかった。Fiの要素はむしろ馬鹿にしていた気がする。そして、こういう極端さも性格的不均衡の証とも言える。どんなに頑張っても中途半端で不自然なTeでしかないので、結局FiともTeとも仲良くできなくて常に自分自身に居心地の悪さを感じていた。苦手な機能を無理やり全面に押し出して使っているので色々なところで躓くようになり、最終的にどうにも立ち行かなくなって完全に行き詰まってしまった。一番辛かったのは、自分でもなぜ行き詰まってしまったのか全く分からないことだった。一生懸命頑張っているつもりなのに、何もかもうまくいかなくて途方に暮れていた。今振り返れば理由は明白で、得意なこと(Fi)を無視して苦手なフィールド(Te)で戦おうとしていたからだ。

某ツールに出会ったのはこの頃で、状況を打開するための手段としてひねり出したのが上記のような理解であり、当時はこれを再起の道標とした。つまり、私はあくまでもFiの世界の人間であって、無理してTeに染まろうとしても上手くいかないことを学んだ。Fiは抵抗なく自然に用いることができるけど、Teを使うと必ずぎこちなくなる。使い方が下手で、自分の力で舵取りをするのが難しい。Teは使うよりも逆に使われる形になってしまう。Te的な人になりきってもTeを最優先しても、頑固なFiが絶対にそれを許してくれなくて死にものぐるいで抵抗してくる。だから諦めてFiの住人として生きていこうと腹をくくったとき、私は同時に精神的な親殺しも達成したのだと思う。

もしも成長過程でFiの世界を自由に謳歌していれば、Teには反射的に嫌悪感を抱き、近づこうともしなかったかもしれない。だけど、私の場合は幸か不幸か、無謀にもTeを使いこなそうとして失敗した過程を経て、自分の中で枯れかけていたFiに戻り、育て直す体験をした。すごく遠回りをしたけれど、性格傾向の長短両面に目を向けてバランス感覚を養うという意味では、この経験は役に立ったのかもしれない。Fiとは対照的なTeの良さを(半ば親からの刷り込みではあるものの)素直に肯定できるし、永遠の憧れのようなものまで感じている。絶対に手が届かないけれど、いつも忘れずに大事にしたいもの。自分の故郷からは遠く離れているけれど、時々遊びに行くとたくさんの刺激と実りをもたらしてくれる、そんな場所。

また別の角度から見れば、私はストレスを感じると不健全な形でTeを暴発させてしまうので、その状態=気持ちのメンテナンスが必要なサインだと気づいて、早期に手を打つこともできる。また、現代の社会生活においてTeが重用されている場面は多いため、Teに合わせようと無理をしすぎて自分でも気づかないうちに疲れ切っていることも少なくない。そんなときも「Teはよそ行きの借り物、私の故郷はFi」と思い出せば、それだけで少し心が休まる。

私はTeへの憧れを捨てきれない、根っからのFiユーザー。年とともに両者をうまく調和させていくことができれば、よりバランスのとれた人格形成につながるのではないかと思う。FiとTeが仲良くできれば、きっと怖いもの知らずになれる。これは私にとって、生涯のテーマの一つとも言える。

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Fiとの付き合い方や他機能との違いなどを理解するようになってからは、人間関係もかなり楽になった。他人のタイプを変に詮索したり分析したりするのは嫌だからしない。ただ自分の振る舞いの見られ方を自覚してちょっとした心がけを大事にすることで、お互いに嫌な思いをしない工夫ができるようになったと感じている。それでも、今も悩ましい場面が全くなくなったわけではない。

「『みんなで』楽しもう、盛り上がろう」とするシチュエーションがどうしても怖い。何らかの祭事や飲み会等の集まりが、心の底から憂鬱で仕方がない。とにかく逃げ出したくなる。以前もどこかで似たようなことを書いた記憶があるけど、この苦手意識について説明を与えることもできる。私にとって最も自然な振る舞い(Fi)は基本的に他者との一体感やあからさまな感情表出・共有を軽視しているのに、上記のような場面ではそれを求められやすい。他方で、Fiの他の側面として、自分にとって自然な振る舞いがその場の空気に水を差す可能性を自覚できると同時に、Fiは決してそれを望まない。ここに葛藤が生じるので、苦しくなる。この説明によって一定の納得感が得られたとして、それでは私は上記場面でどう振る舞えばよいのか。ここでもう一歩踏み込まなければ、説明に納得しているだけでは意味がない。この説明と理解を、どのように活かすのか。それが一番肝心なはず。

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今現在はというと、Te世界に飲み込まれかけていて少し危うい状況な気がする。こんな日記を書いてる時点で、よろしくない。Fiって強情なくせにしょっちゅう死にかける。世話に手がかかる観葉植物みたい。たまに面倒くさくなるけど、私が手を抜くと後は干からびるだけ。Fiに栄養を与えなければ。