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210327 人付き合い5

先日偶然上記の記事を見かけたので読んでみた。『友人の社会史 1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)の著者(石田光規・早稲田大学文学学術院教授)に対するインタビュー記事のようだ。著書の紹介を兼ねているのだろう。ここでは特に印象的だった部分を取り上げて、そこからぼんやり連想したことを書き出してみる。

この記事の中で、「Z世代」の友人関係の特徴について言及されている。著者は「物心ついたころから友人関係がデジタルに可視化されているのが特徴的」であるとした上で、続けて以下のような指摘をしている。

大学で教えていて感じますが、若い人は「人それぞれ」という言葉が好きです。誰かが何かを言ったりやったりしたことに対して「人それぞれだからね」という処理の仕方をする。これは他人の意見や多様性を尊重しているようでいて「私は関わりません」と言っているのに非常に近い。議論してもらっても「人それぞれだから」で終わってしまって意見が深まらない。

ほかにも「困ってるみたいだから、本当だったらやってあげたほうがいいんだろうな」と思っていても「人それぞれだから」踏み込まない。たとえば「サークル、やめようと思う」と言われたとしても、本人が理由を言わないかぎりは深く聞かないし、引き留めない。淡泊です。逆に何か相談したい、支援してほしいと思っている側も友人関係を維持するためにこそ遠慮して事情を話さず、助けを求められない。
「人それぞれ」という距離の置き方が主流になってしまっている状態では、本音で意見を交わすことも、ケンカをすることもとても難しい。関係性の修復が約束されておらず、あっさりと切れてしまうわけですから。

私はZ世代ではないので、この指摘がどの程度的確なものであるのかは正直よく分からない。ただ、「多様性の尊重」が重視される現代のコミュニケーションにおいて、世代を問わず生じやすい問題に言及されているのかなと感じた。少なくとも、私自身上記に似た場面に心当たりがある。

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個人的な経験を振り返れば、私が大学生だった十年ほど前にも既にこれに近い空気はあった気がする。表面的には波風を立てず、そつなく適度な距離感で関わることが最も重視されて、それ以上は立ち入らない。授業の中でも議論が紛糾して誰かがつい声を荒げてしまうというような場面はほとんどなく、誰もがお互いに様子を伺い合いながら、無難にその場を片付けようとする。

私自身を含め、何か深刻な問題が生じたときは、自分が所属しているコミュニティから身を引くという手段をとる人が多かった気がする(ゼミに出なくなる、突然サークルを辞めるなど)。こうした場合「コミュニティ内部の人に相談して解決の糸口を探る」という選択肢が、当人の中で現実的なものにならなかったのだろうと考えられる。

私は大学とは「本音で意見を交わすこと」のできる場所だと思っていたので、そうではない現実を目の当たりにする度に失望していた。例えば、〈生きるとは何か〉的なタイトルを冠した本を読んでいたところを、偶然同期の友人に見られた。その本を見た友人の反応は「どうした、何かあったの?笑」というもので、私も適当に笑ってその場をごまかすしかなかった。その本は当時在籍していた大学の先生が書いたもので、私はその先生の文章が好きだったから読んでいた。環境が悪かったと言えばそれまでだけど、彼女以外の割と親しかった同期たちもほとんど同じような反応をするか、もしくは特に興味を示さなかったと思う。そうなると当然、その本の感想を共有したり内容について意見を求めたりする場はなくなる。

なんというか、古い時代を描いた映画にありがちな「実存的な問題について悩み考える学生像」に対して、かなり冷笑的な空気があった。「人生の意味」とか「死の不可避性」だとかについて真正面から向き合って根本的な問いを投げかけるのは時間の無駄であって、なんなら「ダサい」行動ですらある。そんなこと考えてる暇があるなら、TOEICの勉強でもすれば?という空気が支配的だった。(繰り返すけれどこれは個人の経験談に過ぎないし、大学や学部が違えば、全く異なる雰囲気を味わった可能性もある。)

私としては「大学にいて実存的な問いを扱えないなら、他にどこへ行けというのか」という気持ちが強かった。私は何も、難しい単語を並べ立てたり偉い哲学者の言葉を引用したりして「高尚」な議論を展開したかったわけではない。ただ単純に、今現在の各々にとって抜き差しならない、切実に差し迫ってくる問題を分かち合い、ともに真剣に考える場が欲しかった。話題はなんだってよかった。だけど、そういう時間と相手を持つことは、ほとんど叶わなかった。

当時は若さゆえか「本音で意見を交わすこと」ができない環境に対する不満が強く、その反動で「和気あいあいとした平凡な交流」には全く意義が見いだせず、それらはむしろ恐ろしくつまらないものだと感じていた。お酒は一滴も飲めない下戸なので各種飲み会は苦行でしかなかったし、趣味やイベントを通じて人と仲良くすることにも大して興味が持てなかった。このようにして、友人数極小人間が誕生した。

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幸いその後、「世間」と折り合いをつけるための「普通」のコミュニケーション能力も大事だなということに気づき、当たり障りのないメッセージを交わし合うのは必ずしも馬鹿らしい行為ではないのだと思えるようになった。人と雑談したり、平和的に場を収めたりする力はある程度身につけてきたと思うし、状況次第でそれらが何よりも重要な意味を持つ場面があることも、理解してきたつもりだ。ただ、それだけで満足かと問われると、恐らくそうではない。私は今でも心のどこかで「本音で意見を交わせる」場所を望んでいる。(私が一番人間関係に求めがちなのは、これなのかな?)

人生のあらゆる選択において「唯一の正解」が消え去った今、誰かの悩みや問題に対する答えを出せるのはその誰か自身以外にはなく、それらに対して私の目が答えだとみなしたものは、誰かにとっての答えではありえない。この意味で、コミュニケーションの前提に常に「人それぞれ」という視点が組み込まれるのは、致し方ないことだと思う。では、相手の意思や環境を尊重しながら、なおかつ互いの本音にも踏み込めるようなコミュニケーションの場をつくるためには、どうすればいいのか。そのような場は、どこに見いだせるのか。また、どのような条件が整えば、人は安心して「本音」をさらけ出すことができるのだろうか。

本当はこれらの問いに対する一定の答えをまとめてたくてこの文章を書き始めたのだけど、問いにたどり着くまでに時間がかかりすぎてしまった。今日は一旦ここまでにしよう。