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211114 主義なるものの捉え方

『臨済・荘子』の後語に収められている一節。ここだけでも十分に読み応えがある。明治生まれの人の文章は美しい。というより、著者の言葉が美しいのか。淀みと揺らぎのない文章に触れると、心が洗われる。変な言い方だけど、子守唄のような癒やしと安らぎさえ感じる。頭の中でこんがらがっていたものが徐々に解けて、気持ちが落ち着いてゆく。

 (しかし)自己に忠実に、己れの問題に真剣に沈潜して行くということは、決して容易な業ではない。ちょうど水底に潜ろうとするものが、自己の浮力によって、ともすれば水面に浮び上ろうとするように、我々は華やかな群集の中で、笛を吹いて踊りたい、乃至は痛快に動きたいという欲望に駆られやすい。独りでいては無聊に苦しむ、というのは本統に自己に沈潜し切れないものの浮動性から来る焦燥である。静かに自己の問題を考え詰め、乃至はひとり自己を養い育てるためには、この浮動性を克服して、無聊に堪えて行くだけの忍辱が必要である。
(前田利鎌(1990)『臨済・荘子』岩波書店、pp.236-237より)

一体何をそんなに頑張って「自己の問題を考え詰め」る必要があるのかと、我ながら不思議に思えてくるときもある。ただ、自分が知りたいと心から願うものを真っ直ぐに追い求めるなら、結局ここに辿り着くことになると、幾度となく遠回りを繰り返した上でそう感じるようになった。「浮動性から来る焦燥」に惑わされてばかりでは、何も掴むことはできない。私がぼんやりと感じているだけで言葉にはできないことを、この文章は端的に言い表してくれている。最近はあまり沈潜しきれていないから、改めてこれらの言葉が胸に響いた。

さらに見事な爽快感を覚えるのは、上記に続く一節である。少し長いけれど、中略を加えるところが見当たらない程に無駄がなく、完成されている。

 乱臣賊子という言葉は頗る興味のある語である。いわゆる乱臣賊子というのは太平の世の産物である。太平の世には変動がないだけに、無聊の苦しみに堪え得ないものは、強いて平地に波瀾を捲き起さずにはいられないのである。(中略)いわゆる主義者なるものの半ば以上は、主義そのものに対する感激というより、この乱臣賊子の心に駆られるものではないだろうか。サイコロジカルに解剖してみれば、おそらく主義者の多くにとっては、真理性の如きは第二義的な問題であって、無聊に苦しむものの浮動性が第一義であると見るのは僻目であろうか。その証拠には、戦争否定を標榜する主義者のスローガンが悉く闘争的表現に満ちているのでも解る。言うまでもなく自分がここに問題とするのは、主義そのものの批判でなくて、興味は専ら主義者なるもののサイコロジイにあるのである。それから自分はまたなにも闘争そのものを敢て悪くいうのでもない。ただ自分は、純理の仮面を被った闘争心が、その仮面と自己省察の浅薄なるとのために、人を欺き自らを佯っている点を惜むのである。かくの如くは自ら知らずして得々たる偽善者と何の択ぶところもない。いま少し自己に忠実であり、精神的自負心があるならば、率直に自己の心理を自認すると共に、純理の仮面を借ることを潔しとしないであろう。もしそれ真理のためにするものであれば、いま少しく厳正な批判に沈潜するがいい。
(同上、pp.237-238)

隙のない論理展開、容赦なく正しすぎてぐうの音も出ない、と私は感じた。こんなスカッとする文章書けたら、気持ちいいだろうな。文章に対する感動はともかくとして、その内容にも感銘を受ける。個人的な感触として多くの現代人は、主義なるものの危うさと脆さをよく理解しているのではないかと思う。(それともこの感覚は私の願望の為せる業なのか?)言い換えると、信頼に足る「主義」など存在しないのだと、否応なしに気づかざるを得ないほどに複雑多様な現実に直面していると言えるのではないか。拠り所となる「主義」を見い出しづらい世界で、人はどこに向かうのだろう。