181129 読書―何を、どのように読むか

追記(200722)
削除記事の再掲(一部訂正済み)、十一本目。

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読書において、私はどんな本を手に取り、それらをどのように読むのか。この問いは常に漠然と私の頭に居座りながら、それでいて答えを用意することができずにいた問題だ。最近いくつかの本を通して、この問題に向き合う際のある程度の方向性を定めることができたので、ここにメモしておく。

0.読書の前提にあるもの

私は「私が知らないもの」について、それを知る以前にその価値を知っていることは、断じてあり得ない。あらゆる未読の書物に対して、この当たり前すぎるとも思える前提を心に留めておきたい。なぜなら、「これは読むに値する本なのか」と過剰な吟味を重ね、疑いの目が先んじていると、私は未知の吸収以上に既知の堅持に対して、より意識を向けていることになるからだ。そのような状態では、読書を通じて自分の価値観や視野を根底から覆すような体験に身を投じることは、決してないだろう。読書に臨むとき、私はまだ見ぬ知見を自らの内に取り込むべく、常に心を拓いておかなければならない。

他方で、読書の時間、ひいては人生として与えられた時間には限りがある。手当たり次第、流れに任せて読んでいては、何度生まれ直しても時間が足りないことだろう。だから、無限に思える膨大な書物のうち、どの本から読み、それぞれをどのように読むのか。これらについて自分なりの方針を持つことで、書物の海に溺れることなく、長い目で見れば無秩序に読むとき以上に、刺激的で含蓄に富む、より多くの本に出会えるのではないかと考えた。
以下の内容はこれらの前提の上に見出した、読書にまつわる私のいくつかの指針である。

1.何を読むか:リチャード・ローティの著作より

リチャード・ローティ(2000)『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』(齋藤純一・山岡龍一・大川正彦訳)岩波書店を読んだ。「矛盾の上に立って歩き続けること」を願ってきた私にとり、その葛藤に寄り添い共に歩んでくれるような、心強い励ましとなる本だった。この本のなかでも、とりわけ私自身の読書のあり方を考えるうえで意義深い示唆を与えてくれた箇所について、以下に述べる。ここでは主に〈第4章 私的なアイロニーとリベラルな希望〉及び〈訳者あとがき〉(における本書の要約)を参照している。

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※但し書き

膨大な知識を背景に、多岐にわたる議論と緻密な思索とを備えたこの大作に対して、このように安易な切り取りを行うことには、若干の後ろめたさがあった。全体が大きく、たくさんのパーツの複雑な組み合わせによって構成が成り立っているとき、その中の一部分だけを拡大した像は、全体像とはかかけ離れた印象を与えることがままあるからだ。

しかし、私にはこの本を網羅的に総括する力は到底ないし、そもそも個人的な目的に従って極めて主観的な態度のままに、私はこの本を読んでいる。「前提知識を踏まえた理解度」という点では、不十分な箇所も多いだろう。そのため、恐らくこの本をめぐっては学問や政治の専門的な世界において、歴史上の文脈や他論との対立関係などが想定されるのだろうけれど、そうしたものとは全く無縁の一読者として、この本から得た学び(そのごく一部)について、振り返ってみたい。
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①「終極の語彙」について

第4章の冒頭において、ローティは「終極の語彙」という言葉を以下のように定義している。

人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。私たちはこうした言葉を用いて、友人への賞賛や敵への軽蔑、長期的な計画、とても根深い自己疑念、とても崇高な希望を明確に述べる。こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「終極の語彙(ファイナル・ヴォキャブラリー)」と呼んでおくことにしよう。(p.153)

これに続けて、本書全体を通じて重要な概念となる「アイロニスト」とはどのように定義されるのか、その条件を三つあげている。そのうち一つ目の条件について、以下のように述べている。

第一に、自分がいま現在使っている終極の語彙を徹底的に疑い、たえず疑問に思っている。なぜなら、他の語彙に、つまり自分が出会った人びとや書物から受け取った終極の語彙に感銘を受けているからである。(p.154)

人はみな「終極の語彙」、すなわち「自らにとって大切な信念や欲求を正当化するための一群の語彙」(p.422)をたずさえており、「アイロニスト」(私はこの立場に共感する)は、「自らの『終極の語彙』に対して『ラディカルで継続的な疑い』」(p.423)をいだく。

私はこれまで幾度となく、書店の中をさまよい歩いた。何を求めているかもわからず、それと名指すこともできないままに、つかむことのできない雲を永遠に追いかけるような気持ちで、「私は一体どの本を読むべきなのか」と自問し続けていた。この「終極の語彙」という定義は、まさに私が書物に求めていたものの名前であると感じた。私が本に向かうときとは、だれかの「終極の語彙」に触れたいときであり、また、自らの終極の語彙の「再記述をおこなうことによって、私たち自身にとって可能なかぎり最善の自己」(p.166)を目指したいと強く願っているときなのだ。

②「文学」の社会的な役割について

他方で、ローティは他者との連帯や「社会的な希望」(p.192)について考える際には、(哲学や理論と対比させつつ)「文学」が大きな役割を果たすことを指摘している。

他者への興味関心、もっといえば、他者の苦難を察知する感性を育むのに貢献するのは、ローティによれば、哲学が語る抽象的な言語というよりもむしろ、たとえばディケンズやナボコフといった作家の小説、テレビで放映されるドキュメンタリーなど、他者の生のディテールを描きだす作品である。私たちの道徳意識は、他者が陥っている或る状態を不当なものとして描く一群の語彙にもとづいており、そうした語彙は歴史の偶然のなかで幸いにして獲得されてきたものである。(p.424)

小説は、自分が体験したことのない痛み、自らが身を投じたことのない未知の世界の人びとが強いられている特定の状況をつぶさに描きだす。その描写を通じて「苦痛」を擬似的に体験した私たちは、「苦痛」に対する想像力を強く駆り立てられる。ローティは小説に対して、そのような役割を見出していたようだ。

自分自身を振り返ってみると、私は小説好きとは言いがたい。①で見たとおり、私にとって本とは、専ら自らの終極の語彙の改訂のために用いるものとして認識されてきたからだ。自分にとって異質な他者と、彼らの苦しみに対する想像力を養う手段としては、主に映画に頼ってきたように思う。

本書でも「苦痛は非言語的である」(p.191)(ゆえに苦痛の当事者はそれについて語りうるものはほとんどないので、彼らの代理として小説家や詩人が苦痛の言語化の役割を担うのだ、とローティは主張している)とあるが、映像を通じて演者の振る舞いや表情、彼らの置かれている状況など、複数の要素が絡み合って構成されたシーンを視覚的に追いかける方が、想像力に訴えるものが多い気がするのかもしれない。また、小説や詩などの言語に頼るかぎり、自分の用いる言語(母語)の文化的特性からは逃れ得ないという意味で、想像力の限界を痛感することも理由の一つだろう。

しかし、このような感覚が先立つからといって、小説の価値を軽んじて良いとは全く思わない。特に翻訳に頼らずに他言語の書物を読むことができれば、母語的価値観を脱して他の思考様式に自分を当てはめる試みとなり、想像力を拡げるための良い訓練となるだろう。今それを容易にこなせるほどの語学力はないけれど、わからないなりに格闘するのも、それはそれで面白そうだ。ローティが小説に期待した役割を念頭に置きつつ、今後は小説にも親しめるようになりたい。

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※脱線:翻訳本は読みづらい方がよい?

これまで見てきたローティの著書の翻訳本は、強い関心を持って読んだせいか、不思議なほど読みづらさを感じなかった。けれど、やはり翻訳特有の、英語で書かれたものを無理やり日本語の語順に置き換えたような不自然さを感じる部分は多々あった。他言語から翻訳された本はたくさんあるけれど、ともすると「日本語的にこなれていない」とか「違和感がある」とかの批判にさらされることも多いだろう。

しかし、今回の読書を経て、翻訳本における一定の読みづらさ、不自然さはむしろ積極的に保たれる方がよいのではないかと感じた。なぜなら、翻訳された文章が、日本語を母語とする私にとって全く喉につかえることなく、すんなりと飲み込めてしまうとしたら、その翻訳文は原著で語られた内容とその背景にある思想・文化を損なっている可能性が高いからだ。

それが著された言語特有の手触り、感触を留めようとすれば、どうしても「日本語としては」美しくない文章になる。そして、むしろそのほうが原著の忠実な再現を試みる翻訳と見ることができ、原著の内容理解にも貢献するのではないか。今回の翻訳文を読むなかで、そのようなことも感じた。(いうまでもなく、原著を読めるに越したことはない。)
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2.どのように読むか:関連書籍三冊より

上記のローティの著書を読む前に「広く書くことと読むことに関して知りたい」という気持ちが高まり、その観点から文庫本二冊と新書一冊を読んだ。それらも十分楽しく読めたけれど、ローティの衝撃が強すぎて、今となってはなんだか遠い記憶という感じがする。それでも心に残っていることを二つだけ、書き留めておこう。

①「わかる」のハードルを下げること

「読書百遍、意自ずから通ず」
(同様のテーマとはいえ)ランダムに手にした三冊の本、いずれにもこの語句が登場したのが印象的だった。読書と著述に精通した人びとにとって、これは偽らざる実感として共有されているのかもしれない。私はいわば三人の著者に続けざまにこのように諭されたわけだから、「読書百遍、意自ずから通ず」とは真理なのだな、と無条件に信じたくもなる。

いずれにせよ、この言に触れて「読書に際しては『わかる』のハードルを下限ギリギリに設定しておいた方が、結果的に吸収できるものの量は増えるのではないか」という気持ちが強まった。「この本がどの言語で書かれているのか、わかる」とか「目次の意味がわかる」とか、読書序盤の理解がたとえその程度であっても、とりあえず先に進むことさえできれば、知らぬ間に色々な要素が集約され、一つの像が結ばれていくかもしれない。そのような予感を持って読書に臨むことができれば、難読書、大著と呼ばれる本であっても、恐れず地道に読み進めることができるだろう。

②暗闇に新たなもやを見出すこと

今回の三冊を読む際には、「書くことと読むことについて知りたい」という目的が先にあった。つまり「書くことと読むことについて、私には知らないことがある」という自覚が先立つ読書だった。まだ知らないものがそこにあると感じ、そのもやを払って言語化したいという欲が、私を読書に向かわせる。私がこれまで経験した読書は、ほとんどすべてこのような体験であったと言えるだろう。

しかし、私には「自分が知らないということすら知らない世界」がある。「知らないから知りたい世界」にはもやがかかっているが、それに対して、「知らないということを知らない世界」は、いわばもやの外側として認知すらされていない真っ暗闇である。

もや=わだかまりをとかすために読書するのは訳ないことだ。「解き明かしたい何か」の存在を、私は既に手中に収めているのだから。暗闇=そこには何もないと思っている場所に光を当て、もやのおぼろげな輪郭をつかむこともまた、読書の重要な役割ではないか。今回の読書は、そのような体験の可能性を知るきっかけとなった。