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5歳位のときに習い事の先生に些細なことで叱られて、「やる気がないなら出ていけ」みたいなお決まりの文句を吐かれた。そのとき私は「今までお世話になりました」とはっきり自分で口にして教室から出ていったらしい。細かいところは自分でもよく覚えていない。その後すぐに慌てて母が私を説得して連れ戻し、結局その習い事は続けることになったんだけど、事をうやむやにされたこと、丸め込まれて「本当は辞めたくなんてないよね、思ってもないこと言っちゃったね」みたいな雰囲気に持ち込まれたことが子どもながら非常に不服で、自分の言葉に偽りはなく、何かしらその当時の自分なりの理屈があって間違ったことはひとつもしてない、という気持ちが渦巻いていたことだけはしっかり覚えている。

本質はあの頃と一つも変わっていない気がする。

日常的にはそれほど自覚はないんだけど、ふとした拍子に過激思想(他の考え方は1%も受け入れたくなくて、どうしても死守したい自分のこだわり)が暴発して、梃子でも動かなくなる。そこに上下関係があろうが愛情があろうが気にしない。場の空気を乱しても、自分が損をすることになったとしても、別にどうでもいい。私は特定のある一点においては、絶対に自分の立場を譲ることができない。

昨日もそういう場面に遭遇してしまい、私の謎のこだわりに抵触する指摘を受けて、瞬間的にものすごく腹が立った。思想とは全然関係のないところであれば、人から指摘や批判を受けたら大体私は一方的にダメージを受ける。言い返したり相手を貶めたりする発想に至るよりも先に、自己嫌悪に陥るタイプだ。だけど、大事なところに土足で踏み込まれたときだけは、全く迷いなく相手に反論する言葉が湯水の如く湧いてくる。その瞬間になるまで何に自分がそれほど強いこだわりを持っているのか分からないんだけど、とにかくそこでは、ある種の確信を持って自己主張しようとする。

結局昨日は社会的に望ましくない振る舞いだなと思ってギリギリのところでセーブして、具体的な衝突は避けることができた。でも、ものすごく不愉快な状況で、その場で一言でも喋ろうものなら非難の応酬になりかねないと感じたので、無言を貫いてできるだけ早くその場を立ち去った。


今回の一件を経て改めて思ったのは、他人と折り合いをつけて程々に付き合っていくことが本当に下手だなということ。私は一人になる(である)べくしてこれまで一人で生きてきたんだ、ということ。

最近は常識的な世界に足を踏み入れてそれなりにまともに生きていけそうかも、とか思った瞬間もあったけど、そんなうまい話はないよね。

誰かと仲良くなったり、一緒にいて心地いい関係性を作ったりすることに未だに幼児的な憧れを抱いている自分がいるのは事実だ。人間関係は人の幸福度を大きく左右するらしいし、孤独はあまり健康にもよくなさそう。そう思って頑張りたい気持ちもあるんだけど、現実に目を向ければ、どうしても過激主義者の顔を隠せなくなる瞬間がある。有り体に言えば、私は人と程々に付き合うにはあまりにも自己中心的だし、あまりにもワガママがすぎる。それじゃあ身近なコミュニティも作りようがないよね、となるくらいには、自己を譲ることができない。

私が一人なのには理由がある。一人じゃない状態を快適にするために必要な妥協を怠るのには、私固有の問題がある。死ぬまで一人かもと思うと、ぼんやりとした不安も感じるけれど、それでも私はきっと「思想」を手放そうとはしない。だったら一人も受け入れようと、これまでだってそうやって生きてきたはずだ。ホームに戻るだけで、何も怖がる必要はない。今日与えられたものを失ったとしても、明日別の形で生きていけばよいだけだ。いま、そのことを思い出せてよかった。