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211015

子どもたちのよだれと汗と奇声にまみれながら、毎日が過ぎていく。もちろん「感染対策」の文字は常に頭をよぎるけれど、抱きついてくる子たちを引き剥がすのは簡単ではないし、抱きしめてあげるべきときだってたくさんある。対人援助分野では、密の回避に限界があることを痛感する。予防の観点から何が望ましいのかを知っておく必要はあるだろうけど、そのすべてを実践できるわけではなく、どこで線引きをするかは難しい問題だ。

正直なところ騒がしい環境は苦手だし、子どもに人気のゲームやアニメの話をされても、さっぱり分からない。こんな自分が子どもたちと上手く接することができるのか、不安しかなかった。ただ、その環境に入ってしまえば徐々に慣れていくもので、今のところ何とかなっている。と言っても何とかなっていればよい話でもなく、課題を数えだしたら切りがない。後は一つずつ学んでいくしかないのかなと思う。

大声を上げて暴れまわる子たちに囲まれると頭が割れそうになるし、激しい癇癪を起こされてどうにも制御できず、途方に暮れることもある。私物を壊されて一瞬本気で不快感を覚えてしまった日もあるけれど、不思議とそのすべてを受け入れてしまえる。要するに、子どもたちはとにかく愛おしい。ここで「かわいい」という言葉はあまり使いたくない(感覚の問題)。「かわいい」にはどこか一方的な好意のニュアンスが漂っていて、子ども自身の立場と意思を軽視しているように思えるからだ。子どもは愛玩動物ではないし、私が子どもを「かわいい」と感じるかどうかは、子ども自身にとってはどうでもいいことだ。愛嬌があって「かわいい」子ほど手厚いサポートを受けるような状況も、望ましいとは思えない。

私が各々の子どもに対して抱く感情は、「尊さ」に近い。何をしようと無条件に存在を肯定されるのが当然だと思えるひとたち。だから、子どもに何をされても許せてしまう気がするのは、私の心が特別広いからではなくて、元々子どもってそういう存在なんだと思う。

以前も似たようなことを書いたけど、世の中は子どもにとって生きやすい場所であってほしい。もちろん甘やかしてチヤホヤするという意味ではなくて、「自分は生まれてきてよかったんだ」「今ここにいていいんだ」という素朴な安心感を失わずにいられる空間が増えるといいなと思う。そのために私自身ができることをしたい。生物学上の親になるかどうかは分からなくても、社会やコミュニティの中で「親」として「子ども」の尊さを慈しむことができるようになりたい。これは、ドストエフスキーの最後の主体を読んだときから、ずっと感じてきたことでもある。この望みを自覚しているからこそ、今の環境に飛び込むことができた。自分の「適性」を考慮すれば、もっと静かで安定的な場所を望んでもよかったのだろうけど、私は私にその道を与えなかった。後悔はない。というより、後悔している心理的な余裕はない。

ただ、実際に子どもたちと接していて自分の課題だと感じるのは、「善悪の区別を教え諭す大人」としての振る舞いができないことだ。我ながら全然威厳がなくて、子どもがダメなことをしたときに、はっきりとダメだと伝わる形でちゃんと叱ることができない。そもそも「私は大人として何が正しいかをちゃんと分かっています」という体裁を整えることにハードルを感じている(ここが一番の問題なのかも)。とりあえず一度見定めた「正しさ」を教えるにしても、ただ声を張り上げればいい話だとは全然思わないし、かと言って遠回しに話したって伝わらない場面はたくさんある。怯えさせたいわけじゃないけど、ちゃんと理解できる伝え方をしなきゃいけない。どうすればいいんだろう…きっと答えはすぐに見つかるようなものではないから、経験を積みながら探していくしかない。

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日記を書く元気を取り戻せてよかった。環境に適応するのに必死で、長い間ずっと息を止め続けていた気がする。「やるべきこと」にエネルギーを吸い取られても、私は私が望んでいることを覚えておけるようにしよう。

先日、ポスターだけを見て気になっていた映画『TOVE トーベ』を観た。
事前情報なしで引用されているスナフキンの言葉から想像していた内容とは、かなり違っていた。インテリアや衣装デザインなどは、さすがだなと感服するばかりだった。(↓映画.comより)

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