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210702 好きなもの

随分前に、とある印象派の特別展に足を運んだ。特に目的があったわけではなく、どこかに出かけたいと思ったタイミングでちょうどその展覧会が開催されていることを知り、それなら行ってみるか程度の意気込みだった。幸い当日は大きな混雑に巻き込まれることもなく、緩やかにのんびりと鑑賞を楽しんでいた。

順路に沿って館内を進み、中盤辺りで一旦展示スペースの区切りを通り抜けて、次の空間に足を踏み入れた。そうすると、向かって左手、五メートルほど先にルノワールの作品が飾られているのが目に入った。私は今でもそのときの感動を、鮮明に思い起こすことができる。

その瞬間まで、絵画との運命的な出会いが自分の身に起こることなど、全く想像もしていなかった。私自身は全く絵心がない上に美術について造詣を深めた経験もなく、むしろ、そうしたロマン的な何かに対しては冷笑的な態度を決め込んでいた質だった。だからこのとき私が体験したことも、半分は錯覚と願望の為せる業だったのではないかと、未だにそう思う。それでも、あの絵を目にした瞬間、爽やかな風が吹き抜けたかのような多幸感に包まれたことだけは、確かな記憶として強く心に残っている。

それ以来、偶然目にしたその作品を含め、ルノワールの作品に心惹かれるようになった。特別展ではルノワール作品がよく展示の目玉として扱われていたため、実物を鑑賞できる機会があれば、喜んでその場に出向いた。

その後美大出身の知人との会話の中で、私がルノワールの作品に魅せられているという話に話題が及んだ。彼女は「印象派は日本人受けがいいからね、特にルノワール好きな人って多いよね」と言った。彼女の発言に深い意図はなかったと思うけれど、「一般受けするものを従順に受け入れて、それを自分の感性だと思って喜んでいる」と指摘された気がして、当時の私は何となく自分を恥ずかしく思う気持ちを持ってしまった。

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好きなものを迷いなく好きだと言えるのは、とても幸せなことではないかと思う。たくさんの人に支持されているとか、どこかの偉い人がそれを「良い」と認めたとかの理由ではなく、自分と対象との出会いと関係において育まれた「好き」の気持ちに対して正直であるのは、案外難しいことだと感じてきたからだ。

上記のエピソードのように、好きなものへの感情を他者と分かち合えない場面だっていくらでもあるだろう。さらに言えば、自分の好きなものが明確になると、同じ対象を嫌いだと思う人とは共感の可能性がほとんど絶たれてしまうことになる。このごく当たり前の事実が時折すごく悲しいことのように思えてしまい、何かを好きだと思う気持ちにブレーキがかかりやすかった。あるものを好きだと感じた次の瞬間、「世の中にはこれを好まない人も存在するのだ」と想像してしまう。私がこれまで何か一つの物事にハマったり、のめり込んだりした経験がないのは、常にこうした心情の揺れの最中にあったからだろう。そのせいか、自分には心から好きだと言えるものが何もないような気がして、寂しさを感じることも多かった。

私にとってのルノワールがそうであるように、好きになる対象は、自分が身を置く環境と偶然によって規定されてゆく。数ある美術作品をもっと幅広く眺めればルノワール以上に心に響く作品に出会う可能性は十分にあるし、そもそも美術以外の領域で強烈に惹かれるものを持っていれば、ルノワールに興味を持つことすらなかったかもしれない。そこには必ずしも明確な意志と選択は存在せず、好きなものは、数多の制約を含む自分に与えられた環境の中で見出していくものでしかない。

これらを自覚する一方で、私は少しずつ自分の「好き」の感覚を受け入れる努力をしてきた。何かを好きだと感じたときは、それを認め、できるだけ言葉にするようになった。そうすると、自分がどんなものに惹かれやすくて、その理由は何かが自然と分かるようになってきた。これまでいつも自分で自分の感覚を疑ってばかりいたけれど、少しずつ確かなものが見えてきた。長年覚束なかった自分の存在の足場が固まっていくような気がして、何だか少しホッとしている。イーサン・ホークが言っていたことは、本当だった。

好きなものは、自分がどんな人間なのかを教えてくれる。そうして人物像が固まっていくと、それとは別の人間であり得た可能性が消える。もういい年なのに、私はずっと「あり得たかもしれない可能性」に後ろ髪を引かれて、もたもたし続けてきた。いい加減で何事にも迷い続けるのは辞めて、自分の現在の姿を受け入れなければと思う。もっとしっかりしなければ。