見出し画像

210207 「無益」な好奇心

飽くことのない好奇心こそ、生命力の源。その喜びは常にプロセスの中にある。

半ば無意識的な習慣として、私は気づいたら何かを調べている。それはどこかで見かけた言葉や本、音楽であることが多い。例えば、気になっていた本のAmazonのページを開くと、そこで表示される関連書籍をさらに追いかけて、様々な本の概要やサンプル、レビューなどを読んでいるうちに、いつの間にか時間が過ぎている。コロナ以後は控えているけれど、読書の時間と同じかそれ以上に、本屋さんで過ごす時間も好きだ。ランダムにあれこれ本を手にとり、さらにそこから連想した本へと次々に渡り移ってゆく。そうこうしているうちに何か面白そうなことを閃いたり、今の自分に必要なものが見えてきたりする。特にこれといった発見は得られなくても、こうした一連のプロセスに身を委ねている時間そのものが、私にとっての楽しみであるらしい。

このような時間の使い方に対して、私はずっと後ろめたさのようなものを感じていた。表層を撫でるようにして情報の海を泳いでいるだけでは何か一つの物事や専門性を極めることはできないし、計画性のなさゆえに得た知識を体系化することもままならない。そして何より、本や音楽など、その対象が何であれ、それらを日々浴びるように摂取し続けている当の私は、何も生み出していない。これらの事実に気づく度に、素晴らしい創作物の中をただたゆたっているだけの自分を情けなく思い、プロセスに遊ぶことから一旦距離を置こうと試みてきた(結局また戻ってきてしまうわけだけど)。

私の好奇心から何らかの価値が生み出されることは、恐らくない。私の興味の赴くところで、自分や世の中の役に立つこと、お金や仕事につながるスキルなどを私自身が獲得することはなさそうだ。というよりもむしろ、そうした日常的な利害得失とは切り離されたところにあるからこそ、私の関心はそこに向かってゆくのかもしれない。これまでは実際的な生活と結びつかない自分の性向を恥じる気持ちが強かったけれど、最近ようやく開き直って受け入れてしまおうと思えるようになってきた。

単純な好奇心に従ってランダムに関心事を渡り歩いている時間は、目に見える成果を生み出さない。それでも、もっと知りたいという衝動に突き動かされているとき、その時間そのものが私の心を豊かにしてくれるのだから、それ以上の何かを求める必要なんてないじゃないか。それに、今すぐわかる結果は得られなくても、いつか個々の関心事が結びついて一つの像を結ぶ日が来るかもしれないし、心から素敵だなと思った物事は何らかの形で私の中に残っているはずだ。だから、プロセスに宿る喜びを否定するのは、もう辞めよう。好奇心ほど強い原動力となるものはない。それを大切にしよう。